
初夏、厳しい陽の光と涼しい風が同居する稀有な季節。特に予定もなく街に繰り出した僕は、同じように予定のない友人を呼び出していた。文芸サークルの献本を受け取っておきたかったのと、前にカメラを借りる約束をしていたのでちょうどよいと思った。
果たして彼が到着すると、さっそく持ち出してきた超カッコいいカメラがスタバの狭すぎるテーブルに並べられた。誠に遺憾ながら彼に教えてもらった豆知識はろくに覚えていないが、少なくとも僕が借りたのは右側のレチナⅡaである。今から70年くらい前のフィルムカメラということで、すなわちレトロカメラの部類に属する。
元々は典型的なデジタルカメラを買って、通常のカメラ趣味をスタートさせる予定だったのだが、たまたま友人がフィルムカメラのオタクだったことと、その彼にカメラ趣味の開始を匂わせたことが災いして今回の契機に至った。しかしながら、この重厚な金属筐体と古典的なメカニックが僕の性癖を刺激したのは紛れもない事実だ。彼は僕の服装や持ち物からそういった傾向が備わっているのを見抜いていたのだろう。
実際、今時の製品は利便性の代償として文化的な歯ごたえを失っていると感じる。物理的な故障を減らすために機械的機構が電子制御に置き換わり、手入れの手間を惜しんでウールや麻よりも化学繊維、本革よりも人工皮革が選ばれる。そこそこ高価な服にも数%のポリエステルが入っているのは、必ずしもブランド側がケチっているせいではない。客が伸縮性の低い服を嫌がるからだ。

レチナⅡaは1934年に登場した初代レチナの戦後モデルで1951年に発売されている。違いとしては距離計やフィルム巻き上げレバーなどが挙げられるが、借りた個体についてはどちらも不具合があるらしい。昨今ののっぺりした板みたいなガジェットに慣れていると、この時代の製品に特有の触るべき部品の多さ、学ぶべき前提知識の膨大さに圧倒されそうになる。
操作手順は初見だとやはり難しい。散歩がてら僕の買い物に付き合ってもらい、上野から原宿、原宿から丸の内、丸の内から月島あたりまでを縦横無尽に駆け巡りつつ、段階的にカメラの指導を受けた。僕が往来する人々について、なにを持っていてどんな格好をしているか、または、どの店になにが売っているかという極めて世俗的な観点に終始していたのに対して、友人は建築物それ自体に関心を持っているようだった。「ジャンクションを見に行こう」と誘われたのは生まれて初めてだ。
まずはカメラを開く。そう、カメラに「開く」という動作がある。一周回ってカメラアプリと用語が一致するのは興味深い。筐体の底面の小さなボタンを押すと、バネで前蓋が開いてレンズと蛇腹が前にせり出す。これを手で伸ばしてやるとカチッと音がして固定される。大仰なほどの物理的フィードバックがささやかな高揚感を与えてくれる。
次に、本来はフィルムを入れるのだが――この操作はまだ許可されていない。あらかじめ挿入済みのフィルムを使い切り、その場に友人が立ち会うまでは裏蓋を開くのも禁じられている。手順を守らずに開けると瞬時にフィルムが露光して無駄になってしまうからだ。
続いてフレームカウンターをセットする。フレームカウンターはダイヤモンド型のマークを使って撮影枚数に合わせて手動で固定する。撮影するごとにカウントダウンされていく仕組みだが、割と当たり前にズレていくためあまり信用はできないらしい。0になると巻き上げレバーが動かなくなるので、その場合はカウンターを勘で再設定しなければならない。
そしていよいよ被写体の前に向かう。巻き上げレバーをぐいっと動かすと内部で文字通りフィルムが巻き上げられ、理屈上は撮影可能な状態に遷移する。間隙を入れず、シャッタースピードと絞り値を設定する。レンズ周りのリングをこりこりと回すと変更できる。ただし、露出計はこのカメラには実装されていないため、効率的に撮るにはスマホに露出計アプリを入れておくと良いらしい。ここへきてアナログとデジタルが融合を果たすとは思わなかった。

最後にレンズの距離環を回してピントを合わせる。ファインダーを覗くと中央に二重像があり、これが一致した位置が合焦点とされる。この状態で構図を決めてシャッターを切る。写真を一枚撮るだけでもまるで秘術のような難解さだ。僕はさながら、アナログレコードに針を落とす時の儀式じみた手つきでレチナⅡaを操作していた。
じきに何枚か写真を撮った。フィルムカメラは画角が狭い。スマートフォンのカメラはその利用実態から至近距離の被写体を撮るのに適した画角を備えているが、当時のカメラは比較的離れた人物や景色を撮る方に向いている。カメラアプリのギャラリーをラーメンで埋めている分際では、このカメラに馴染むのは容易ではないように思われた。
しかし、いざ懐に抱いて街を歩いていると、これまで見落としていた物体や風景が唐突に文脈を持って目の前に現れはじめた。それらはあたかもすでに撮られる準備ができている様子だが、実は街の開闢からそこに佇んでおり僕が気づいていないだけだったのだ。
そうした被写体はおそらく街中に潜んでいるが、僕自身の準備不足ゆえにそれらをフィルムに収める機会を逸している。そう考えると、今の時代にあえてカメラを携える意義に初めて理解が及んだ気がする。この様式でなければ記録できない魂の形が存在している。
ここで文末に一枚でもフィルムカメラで撮った写真を掲載できたら格好がついたものの、あいにくまだ与えられたフィルムを使い切っていないため、肝心の現像作業に着手できていない。映画などでよく見る割には縁がなかったので早くやってみたい。ミステリーかホラーかサスペンスのジャンルで、なぜかいつも薄気味悪い雰囲気の男が暗室でやっているあれだ。なんなんだろうなあれ。