点と接線

ゴリラに無線イヤホンは向いていない

盛夏、賞与のおかげで僕の懐はだいぶ暖かかった。こういう時にはうっかり散財するのも悪くない。服や靴はいつでも買っているが、懐が温い時にしか検討しない代物もある。さしずめオーディオ製品などはそうだ。約10年前、据え置き用のシステムを一通り揃えてエンドゲームを迎えて以来、この領域は手つかずになっていた。

厳密には、数年前に1万円ちょっとを出して無線イヤホンを購入している。音はまずまずで悪くない。出社日の電車内でSpotifyのDiscover Weeklyを回して曲探しをするのが目的だった。そして現在、SpotifyはCD音質相当のロスレス再生に対応し、無線イヤホンのバッテリーは如実に持ちが悪くなった。いよいよ買い替え時がきたのだ。

平時であれば少しぞんざいな気持ちで同じ価格帯の無線イヤホンをポチるのが関の山だが、前述したように今の僕はあぶく銭を持っている。それに、音楽に触れている時間は今や据え置きの環境よりもこっちの方が長い。かつて理想のシステムを構築した時は耳がばかになるほどあれこれ聴き倒したものだが、昨今ではそれも成熟を迎えてお気に入りの曲をじっくり聴くための手段に変化していた。

つまり、新しい音楽に触れるための最初の視聴環境が実際にはまだ未整備であり、ここには幾ばくかの改善の余地が残されている。そこで太陽がアスファルトを焼き焦がす折、足繁く秋葉原に出向いて無線イヤホンを物色していたのだった。ところが、予算を1万円ちょっとから2、3倍に増やした程度では目立った改善は得られなかった。なぜなら無線イヤホンは必ずしも良い音を聴くためのデバイスではないからだ。

まず、ある一定以上の価格帯の無線イヤホンにはノイズキャンセリング機能の搭載が暗黙に期待されている。雑踏の中で暮らす現代人にとって静寂は値札をつけるに値する代物である。一方、科学技術が作り出した静寂にかまけて必要な対応が行えないのは自身の商品価値を損ねかねない。そこで、イヤホンを取り外さずとも外部の音が聞こえる外音取り込みモードも要請される。

意外にマイクの音質も重要視される。無線イヤホンにはほぼ必ずマイクが内蔵されている。とりわけデスクワークに勤しむ労働者からすると、わざわざ使い分けがいる製品は不便という話になる。言うまでもなく、この場合はスマートフォンとPCにマルチポイントで接続先を切り替える機能も求められる。このように、数万円クラスの無線イヤホンが担う本質的な使命はサウンド環境の可搬統合化であって、音楽鑑賞は一つの役割に過ぎないことが分かる。

すなわち、仮に3万円台の無線イヤホンがあるとして、おそらくその音質は上記に挙げる機能を搭載していない1万円台の製品とそう大きくは変わらない。では、一体いくら出せば圧倒的な音質が手に入るのか? 僕の耳感覚ではB&WのPi8 はけっこう良いと感じた。ただし、値段は軽く5万円以上もする。往年の名機と称されるヘッドホンはだいたい手に入ってしまう価格帯だ。だが、そもそもの用途が異なる前提を認めなければならない。「往年の名機」は嗜好品であって、無線イヤホンは実用品なのだ。

殊ここに至り、自分が不利なトレードを試みている事実に気づいた。僕は別にノイズキャンセリング機能を必要としていない。眠たければ擦過音とアナウンスが飛び交う電車内でも爆睡できるタイプの生き物であり、外では逆に警戒心を強めて耳を塞がないタイプの霊長類だ。コンクリートジャングルに産み落とされしモダン・ゴリラ。ウホウホ。電車の吊り革で移動するしキースイッチの荷重はたぶん1kgくらいある。

当然、マルチポイント接続も立体サウンドも気の利いたイコライザも無用の長物となる。なにより、どんなに上等な製品でもバッテリーが交換できない以上は使い捨てになる。僕にとって無線イヤホンの利点は、要するに線がないことしかない。そのためだけに不必要な機能を抱き合わせで背負い込み、割に合わない金額を払おうとしている。そう悟った瞬間、物欲の波がざざあーっと引いていき、真夏の日照りでカラカラに乾いた砂浜にゴリラ一匹が取り残された。

……かに思われた。これまでの葛藤からおのずと導き出される帰結が胸中にわだかまり、原始の脳漿に届くのにあまり時間はかからなかった。 「では、有線イヤホンにすればよいのでは?」 もちろん、すぐに首肯はしない。なんとかかんとかリアクタンスというやつで、心理的な平衡状態を保つためにざわざわと否定的な意見が脳内に殺到する。

有線にしたら取り回しが面倒だ。音楽を聴くたびに昔と同じ苦労をするのか? あの頃はウォークマンとヘッドホンの組み合わせだったが、なかなか面倒だった。しかし今の使い方を振り返ると、当時と違って外で音楽を聴くタイミングは限られている。電車内か、どこかに座っていて暇な時だ。昔と違って今は他に暇つぶしの手段がたくさんあるので、音楽ばかりに依存していない。であれば、線がつながっているくらい大したデメリットではないのでは?

いや、だがどうやって接続する? 今使っているスマートフォンにイヤホンジャックはないぞ。変換器を買わないといけない。いちいちそんなのをぶら下げるつもりか? 検索すると、ほとんど邪魔にならない上に見た目もクールで性能も高い外付けDAC が見つかった。いつの間にか普及していた4.4mmバランスプラグにも対応している。今時の高級イヤホンはこれが必須らしい。

一つ一つの懸念が着実に解決されていくのを見て取ると、乾いた砂浜に潮が満ちはじめた。毛むくじゃらのつま先を濡らしていたささやかな波が押して引き、次第に太ももを飲み込んだ。もう逃げられない。轟音が響く。まもなく全身を覆うばかりの高波が迫ってきた。週末と祝日の間を有給休暇で埋めて作った4連休は、その大半がeイヤホンでの視聴に費やされた。

そして、無数の候補から選び抜いた有線イヤホンが手元にある。10年前のヘッドホンの世界では聞き馴染みがないDUNUというメーカーのDN242 だ。2基のダイナミックドライバに4基のBAドライバ、さらに2つの平面磁界駆動ドライバまでもが盛られている。僕がまだ有線イヤホンに理解があった頃はUltimate Earsの「Triple.Fi10」が3基のBAドライバを搭載して一世を風靡していた。あれから様々な技術革新があったことがうかがえる。

聴いてみると(いや、eイヤホンでさんざん視聴したのだが)、昔の思い出に残る「イヤホンの音」を脳裏の彼方に吹き飛ばす鮮烈なサウンドフィールドが全身に押し寄せた。これを自分のものにしないのはもはや罰当たりとまで思えた。好みが分かれそうな真っ赤な筐体デザインはさておき、紛れもなく自己認識を根底から覆す驚異の音質である。

かくして僕の賞与は自分にとって相応しい用途に消費された。ゴリラに無線イヤホンは向いていない。だが、荒れた海にさらわれた霊長類はその体躯を活かして波に乗り、今では地元のコンクリートジャングルで平和に暮らしている。