点と接線

フルマネージド・ラーメン

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 勤務を開始するとまずは店舗で朝ごはんを食べる。これは製品プロダクトの品質を評価するための業務であり、労働時間に含まれている。管理部門の業務は多岐にわたる。〇一七・〇五〇・一三一と名付けられたその製品はかつて『豚骨醤油ラーメン』と呼ばれていた。ロボットアームが調理を終えると目の前の扉が上に開き、ラーメンが箸とれんげと一緒に供デプロイされる。器の色は白かったり黒かったり、まったく別の色だったりすることもあるが、材質はきまって陶器製だ。度重なるA/Bテストの結果、少なくともこの点については変更の余地がないと確証が得られた。顧客満足度は味のみでは決まらない。
 箸を手に取る前に盛り付けを確認する。丼ぶりの奥に三枚の海苔、中央左寄りにチャーシューが一枚、右寄りにほうれん草。麺はスープに沈みきらないように若干浮いて存在感を示している。この配置も膨大なフィードバックをもとに入念に設計されている。しかし私個人の感想としては、チャーシューとほうれん草の位置は逆の方が好ましい。いや、位置はどちらも中央でほうれん草を手前に置く方がいい。いや、むしろ……。
 うーん、すぐに結論は出せそうにない。次の評価に移ろう。
 器を持ち上げ、湯気とともに放出される匂いをかぐ。と同時に、スープの色味も間近で確かめる。豊かな獣臭と醤油の香りが鼻腔をくすぐる。
「いい匂い……」
 思わず声が漏れる。
 前回の同レシピの製品よりわずかに獣臭が抑えられている。顧客満足度の基準は常に一定ではない。より刺激的な設計が高い評価を受けたかと思いきや、ある時期から急に流行が移り変わる。スープの色はかなり濃く茶色がかっている。現在の顧客は視覚的には刺激を求めていても、味わいはややマイルドな方を好んでいるようだ。
 一次評価を終えたところでようやく箸を持つ。スープが冷めると食味評価が不正確になるため、あまり時間をかけすぎてはいけない。今回は麺から食べる顧客をシミュレートする。スープがよく絡んだ中太の麺をゆっくりと持ち上げる。麺の色は小麦感が強い黄色。すかさず口元に運び、勢いよくすする。顧客の九一・一二%は麺をすすって食べる。
「おいしい!」
 また声が漏れる。もはや漏れているという程度ではない。叫んでいる。インターフェイス端末であるインプラントデバイスが普及した現代では発声器官を用いる必要性はないのに、こうおいしくては声を出さずにはいられない。もう一口、頬張る。
 舌の中でスープと麺が踊り、一見ばらばらの諸要素が濃厚な一体化された構造物として速やかに統合される。醤油と豚骨の深い味わいが口内にじわりと広がり、全身を揺さぶる快楽が押し寄せる。ぎゅるぎゅると血流が唸る。次の一口が食べたくなる。さらに食べたくなる。一連の工程を繰り返すと味覚が一時的に飽和状態に陥るが、一方でチャーシューや海苔やほうれん草に目を向ける余裕が生まれる。それらを適宜口に含むと、飽和した味覚が原状回復されて再びスープや麺と向き合うモチベーションが湧いてくる。
 とはいえこの頃には原初の渇望感は満たされ、海苔を麺に包んで食べたり、各々のテクスチャを舌先で吟味したりなど、技巧に凝った食味活動が優勢となる。これは私の本来の趣味ではない。緻密な製品設計がもたらす誘導である。スープの最後の一滴を飲み干すまで顧客を飽きさせない工夫なのだ。
 このような高度な製品が戦前のはるか昔にはすでに生まれていたと言う。かつて人々に広く愛されていたとされるこの製品プロダクトは、戦後復興の象徴たる『人間性』を獲得する上で重要な研究対象でもある。私は丼ぶりと箸とれんげを扉の奥に押し込んで片付けを済ませた。
 二杯目、いっちゃおうかな……。悪魔の囁きが脳内でこだまする。
 いや、やっぱりやめておこう。視界の端にうっすらと表示される時刻を見て考えを改めた。二杯目の満足度が一杯目を上回った経験はめったにないし、お腹がいっぱいだとお昼ごはんにも差し支える。
 結んだ髪の毛を解こうと手を頭の後ろに回しかけて思い出す。どうせ三食ともラーメンしか食べないのだから結びっぱなしにすることにしたのだった。視線を自分の胸元から足先に注意深く這わせる。今のところダークネイビーのパンツスーツに染みはない。運が悪いと一日に二度もプリントし直す時がある。どんなに注意を払っても流体力学の気まぐれはいつもスープの飛沫をあらぬ方向に飛ばす。
 次いで天気予報を参照する。今日の天気は、ミサイルのち晴れ。昨日は晴れのちミサイルだった。つまり、昨日は昼過ぎにミサイルが降ってきたが、今日はさっきまで降っていた。空中で迎撃された火薬がぽんぽんと花開いて青空を鮮やかに彩っていたことだろう。店内がかすかに振動して建物全体が徐々にせり上がっているのを感じる。インプラントデバイスが空襲警報の解除を教えてくれたので、とりあえず店の外に出る。
 外ではちょうど周囲のビル群がにょきにょきと天に向かって伸びているところだった。空襲に備えて地下に格納されていた建物が元の姿に戻りはじめている。本来は建造物の建て替えを簡単にするための仕組みだったのだが、現行の社会体制に反対して月面に移り住んだ人々による攻撃を防ぐ手段としても役立っている。上空からはビル群が波を打って沈んだり現れたりしているように見えるのかもしれない。
 とは言うものの、早朝や深夜ならともかく人通りの多い昼間にビルが沈んでいくのはなにかと面倒だ。ここ二、三年は九九・九九%の迎撃率を維持しているとの統計もあり、街の人たちはミサイルが落ちてくるリスクをまったく考慮していない。外で空襲に出くわしても、シェルターに避難する手間を惜しんで勤務先のビルが生えるのを待ち構えている人もいるほどだ。
 その点でいうと私の勤務先の建物はちょっと変わっている。地上階が店舗になっていて地下階層に経営本部が入居している。だから空襲の際に折り畳まれるのは一階部分だけで済む。私は密かにと呼んでいる。数百メートル下にある地下鉄駅と直結しているのでとても通勤しやすい。
 ふと見渡すと、数ブロック先のビルが正四角錐に作り直されているのが分かった。およそ数千年前から戦前まで存在していた歴史的建造物に似た見た目をしている。しかし異様に細長い。空を仰いでももちろん低階層部分しか見えない。インプラントデバイス曰く五〇〇階建て相当だそうだ。地上からこの建物の全体を視界に収めるには一キロメートルは離れないといけない。戦後復興を遂げてからはこうした不可思議な再開発も珍しくなくなってきた。私たちの社会の代表たる巨大知能が都市計画を担い、建物を設計し、大小の機械が建築をも取り仕切る。地下に畳んだ建物をせっせと取り外して、プリンタで出力した建材にぺたぺたと張り替えると次の週にはできあがり。
 私たちの製品も同じだ。店舗の奥では重力制御された寸胴鍋が最大一〇〇気圧相当の圧力で豚骨の成分を効率的に抽出しており、チャンバーで精密に加熱される具材、調理用のレーザー装置で微細に焼き目を加えられたチャーシュー、その瞬間の気温と湿度に応じて最適な麺上げを行うロボットアームがそれぞれ顧客に最高の価値を提供している。完全管理された製品フルマネージド・ラーメンなのである。

 定刻を迎えると地上階の店舗が営業を開始する。顧客への刷り込み効果を狙った伝統的なラーメン屋の暖簾が光を灯し、独特の香りを放出する。この香りは調理中のものとは別に意図的に合成している。製品のレシピは二の二四乗まで見込んでいるが、そのどれもを代表しない価値中立的、無標的なラーメンの香りだ。来店時の顧客は必ずしも本気でラーメンを求めているわけではない。他に思いつかないのでただなんとなく、といった場合もありえる。だが、この香りを嗅いだ途端、統計上はほぼ間違いなくラーメンの訴求効果が最大化される。人間性を尊ぶ言い回しをするならになる。
 欲求が高まった状態の注文は精度も高い。戦後社会では脳内に埋め込まれたインプラントデバイスが、顧客の生理メタデータを送信してマッチングを行う形式が前提となっている。〇一七・〇五〇・一三一が『豚骨醤油ラーメン』のある一つの形態を示しているのは、サービスを提供する私たちのみが知っている。顧客は自分の好むラーメンがどれなのか知る必要はない。どんな状況であれ生理的欲求に基づくもっとも適切な製品が手元にやってくる。後はそれをどのくらい気に入ってもらえるかで改善方針が定まる。例外的に私が試食する製品は職務上の要請から生理メタデータを無視して無差別に選ばれるが、それでもその評価は随時送信されている。食前、食中、食後一〇分後、一時間後、半日後……一週間経っても記憶に残るのが良い製品だ。
 思考疲労を軽減させる福利厚生の一環として支給された外部ディスプレイを地下階層のオフィスで見つめていると、ちょうど店舗に顧客が入店していた。地上階の本店以外にもあらゆる地域の支店に続々と客が入りはじめる。インプラントデバイスだと一〇枚も開くと計算負荷で頭が鈍くなってしまうが、独立したディスプレイなら二〇枚あってもへっちゃらだ。
 今、来店客の一人のデバイスが生理メタデータを送信した。気まぐれに参照してみると、一五一・〇四八・〇一二が適合したと判る。あっ、これは内部でテストレシピ三七一と呼称されている製品だ! 戦前の文献から発見された『ニューウェーブ』と称される製品群の一つを再現したものである。
 注文が受理されると店舗の奥で調理が開始される。マイクロ単位の精度を誇る様々な用途のロボットアームがせわしなく動く。まもなく一五一・〇四八・〇一二が顧客の前に現れた。座席の前の扉が上に開いて、ラーメンが箸とれんげと一緒に供デプロイされる。テストレシピ三七一の丼ぶりは背の高い逆円錐状で持ちにくい。顧客はそれを手前に引っ張り出して置き直す。更新されたデータによると、顧客は当該の作業にわずかなストレスを感じている。この顧客に限らず、全支店の一定数の顧客から同様のストレスを検知している。一方、中には逆に当該の作業に快感を覚える人たちもいる。現在は複数の店舗でA/Bテストを実施しているが、有力な情報を得られずどうにも決めきれない。
 いつの間にか顧客がスープをすすっていた。この顧客は具材や麺を後回しにして、さらにはれんげも使わずにスープを飲むタイプのようだ。統計上では中高年層の男性にはれんげを使わない顧客が多い。若いうちはれんげを使っていた顧客もなぜか歳をとると使わなくなる。
 ああ、れんげを使ってほしい!
 私は地上の顧客に向かって叫びだしたくなった。
 スープに含まれる要素を均質に摂取するにはれんげの使用がもっとも適切だからだ。器に直に口をつけて飲む形式では表面に浮いた油の成分が勝ちすぎ、こちらの想定よりも味わいがくどく受け取られかねない。
 しかし、そんな懸念をよそに顧客は一五一・〇四八・〇一二を極めて高く評価していた。随時更新される生理メタデータがスープのみならず具材、麺、食後にも文句なしの最高評価を与えている。このテストレシピの滑り出しは順調そうだ。対象の顧客から今後一週間ぶんの生理メタデータを自動取得できるように設定を調整しておく。
 つつがなく顧客管理を終えた私は、インプラントデバイスで開発部門の監督官と連絡をとった。
〝お疲れ様です!〟
〝声がでかいよ、お疲れ様〟
 思考性通信に声の大小の概念は存在しないが、私を投影している会話のイメージがそういった印象を抱かせているのだろう。
〝今日、監査だっけ?〟
 都市から数十キロメートル離れた農業地域には製品に用いる食材の開発部門がある。今日は年に一度の現地監査の日とされている。デバイス越しでもなんら問題なく用を足せるのにあえて対面で行うのは、市民に振り分けるどの仕事にも一定の身体的充足性を設けるためだ。とりわけデスクワークは充足感を担保しづらいので少々作為的にでも対面業務を用意しなければ水準を満たせない。
〝そうですね、お昼すぎに伺います!〟
〝でも輸送車の試験走行もあるんじゃなかった?〟
〝どっちもやります!〟
〝声でかいって。分かったよ、とにかく予定通りでいいんだね〟
〝すいません、はい〟
 社会体制が現在の形態になってしばらく、市民の希望職種はもっぱらデスクワークに集中していた。無理に働かなくても衣食住には特に困らないのだが、全員には行き渡らない嗜好性の高い製品を優先的に楽しんだり、より利便性の高いインフラを利用したり、あるいは純粋に自己実現のために生産活動に従事したい人々がとても多かった。身体的な充足の魅力が広まると職種の需要はデスクワークからいわゆる現場仕事に移り、今では農業と漁業は順番待ちをしなければ参加できないほどの人気で賑わっている。
 言うまでもなく、どの職業でも生産のほとんどを賄っているのは巨大知能と工業機械だ。人間の手による労働は市民の健全な競争心と達成感を満たす余興としての役割が非常に大きい。だからいつ休んでも構わないし、誰かが困る事態には決してならない。先の戦争の反省から私たちは人間の充足感を考慮に入れることを学んだのである。
 かくいう私も三食いつでもラーメンを食べられて幸せだ。
 地上階に上がってお昼ごはんに〇〇三・二五一・二三一を食べ終えた後(あさりの香りが鮮烈な具材たっぷりの海鮮塩味だった)店舗の裏手に回った。今日の午前は客の入りがいつもより一八・七四%も高かった。皮肉にも、毎日降り注ぐミサイルの雨が私たちの製品の発展に寄与している。空襲警報が発令された地域は他の気候条件に関わらず直後の売り上げが伸びる。特に〇〇〇・〇〇〇・〇二六などの具材や油脂が多く含まれるレシピのものがよく売れる。完璧な迎撃システムに守られつつも、ほどほどに不安をかきたてられる状況下では食欲が亢進するらしい。私たちを滅ぼそうと目論む彼らにとっては心底心外に違いない。
 雲一つない透き通った空の向こう側に住む人々の姿を幻視する。土も海もない月でおいしい食べ物は作れるのだろうか?
 私個人は彼らに敵意はない。むしろ同情している。数百年前のご先祖様が現在の体制を受け入れたか、そうでないかで日々の暮らし向きがずいぶん変わってしまった。たとえどんなに技術が進んでも一気圧の大気に馴染んだ人類が地球の外で幸せに暮らせるはずがない。ラーメンのスープは常温で沸騰するし、チャーシューはあっという間にパサついてしまう。
 その一方で、私たちの社会を明け渡したくないという気持ちもすこぶる強い。彼らを救いたければなにもせずに黙ってミサイルを受け止め続け、ぼろぼろになった街でひたすら待っていればいい。抵抗のすべがなくなるくらいに私たちが弱りきれば、いよいよ地球に攻め込んでくるだろう。そして、現行の社会体制は終焉を迎える。私たちの代表たる巨大知能は幾度となく和解案を持ちかけたが、これまでにまともな返事一つさえもらえた試しはない。文字通りのゼロ回答だ。現在の都市の生産能力をもってすれば宇宙に住むすべての人々に満ち足りた暮らしを提供できるというのに。
 試験走行用の輸送車が店舗に停まる。輸送部門が使用している四トントラックで、どこからどう観察しても平坦な長方形に見える。新しい規格の道路に適合したタイヤは球体をしていて大部分が車体に埋まっている。これらのトラックが群をなして農業地域と店舗の間を休みなく走り続ける。通常時は衛星測位システムに加えて車体同士の交信、道路や他の建物からの情報支援も活用しているが、緊急時にどれが欠けても走行を継続できるようにスタンドアロンの制御システムも搭載されている。
 私たちの製品の要はロジスティクスである。新鮮な食材がいつでも提供可能でなければ顧客体験の価値を最大化できない。インプラントデバイスでシステム情報をモニタしながら、輸送車自身が内側から荷台を開ける様子を見つめる。積載された直方体の塊――瞬間圧縮冷凍された野菜や肉――を内部のロボットアームが持ち上げると、店舗の裏手の搬入口にそれらを次々と差し込んでいく。当初はもっと大きな搬入口に荷台ごと傾けて一気に投入していたが、衝撃による食材の傷みが製品に無視できない度合いの品質劣化をもたらしていたため、現在の形式に移行したのだった。
「ただいまおいしい食材を搬入中です〜♪ 作業中ですのでお近づきにならないようお願いいたします〜♪」
 輸送車から古典的なリズムの聴覚性音楽とともに警告音声が流れる。聞いているうちにロボットアームが搬入口に食材を差し込む時の雑音と音楽が同調しているかのように錯覚する。
「どうも〜ありがとう〜!」
 私もリズムに乗って合いの手を入れていると、じきに最後の一つを投入し終えたロボットアームが自らを荷台の奥に畳み込んで扉も閉まった。
 システム情報はすべて正常で問題なし。この試験走行用の輸送車は緊急時の運用をシミュレートするために一切の情報支援が無効化されている。このぶんならたとえミサイルが山ほど落ちてきて都市が機能不全に陥っても通常営業を継続できるだろう。現状でもSLA(サービス品質保証)は九九・九の後ろにさらに九が六つ、すなわちナインナインを達成している。年間に三一・五ミリ秒未満しかサービスを停止していない。しかし裏を返せば、数十ミリ秒は停止している。まだまだ完璧とは言えない。
 走り去っていく四角い塊を見送りつつ、そろそろ大気圏外の輸送ルートが実現してもよいのではないかと考えた。現状でも陸上路が寸断された状況を想定して、デリバリー用の機材を強化した輸送用ドローンを配備している。また、現地での農作が行えない地域には海上輸送や空輸も実施している。だがこれらの手段は遠隔地に運搬するには効率面の不足が否めず、食材の品質劣化が懸念されている。
 そこでもし高度一五〇〇キロメートルの準軌道上に大陸間弾道輸送ミサイルを投入できたら、時速三〇〇〇〇キロメートルもの高速度で食材を運び入れられる。理論上は大陸をまたぐ遠方にも約三〇分で新鮮な野菜や肉を運搬できるのだ。
 万が一、いつか出来上がったら防衛部門には私たちのミサイルを迎撃しないように掛け合わなくちゃ……。
 唐突に我に返る。妄想を膨らませている場合ではない。インプラントデバイスで乗用車を呼びつけるとどこからか丸みを帯びた一人乗りのものがやってきた。座席に乗り込むとすぐに走り出す。数キロ先に先行してしまった輸送車を追尾するように指示を出す。遅まきながら記録を始めた。
「テストドライブ一九、開始」

 情報支援が打ち切られた輸送車は遠隔で監視できない。内部に組み込まれたシステムが単独で車体を制御している。原状回復を最優先に行う設計のため極端に危険な状態には陥らないはずだが、今回の試験走行テストドライブでは安全確認も兼ねて同行している。いざという時はデバイスを介した一対一の近距離無線通信で車体を停止させればいい。
 とは言うものの、走行を継続して早くも一〇キロメートル。車窓から外を眺めると、はるか彼方に佇むビル群が背の高い順に波を打って沈んでいく様子が見える。空では相変わらず月面から飛来したミサイルが性懲りもなく火花を散らしている。
 今日の本当の天気はミサイルのち晴れのちミサイルだったらしい。天気予報が外れるのは初めてかもしれない。
 景色の手前には近現代以前の建築様式を再現した中低層の住宅街がビル群を取り囲んで広がっている。バロック様式の区画を通り過ぎると次は黒塗りの瓦が整然と並ぶ日本家屋の区画が現れた。
 さらに十数キロメートルも離れるとビル群は朧げとなり、住宅街も遠ざかって金色に輝く小麦畑が顔を出した。都市の消費量を賄ってなお余りある広大な農地の間には、巨大な樹の根っこに似た太いケーブルが張り巡らされた砲台が建っている。その金属製の白い台座の上には、空に向かって仰角を設けた迎撃用レーザーの砲身が一ダースぶんも束になって装着されている。台座よりも砲身の方がずっと大きいので横転してしまいそうだが、幸いにもそんな話は聞いた覚えがない。こうした砲台が農地の至るところにいくつも整列している。
 私たちが栽培している小麦は持続可能型品種と呼ばれており、収穫時の検品を通過できず放置されても腐敗せずに自動的に液化する。土壌に吸い取られて濾過されたそれらは高純度のバイオ燃料としてプラントに蓄えられ、迎撃用レーザーの動力源の一つとして利用される。防衛部門と開発部門が共同で成し遂げた偉大な仕事だ。
 視線を前に戻す。例の輸送車は車線を一ミリも外れずに走行している。何度か他の車とすれ違ったが、車輌同士のネゴシエート交信に頼らずとも単独の判断でうまく協調しているようだ。
 周囲を見回す。見渡すかぎり平地でどこにも人影や危険物はなし。交通事故の再現実験にはうってつけだ。デバイスを介して輸送車と直接交信する。マニュアル操作で操縦をオーバーライドして通常ではありえない値を入力――直後、数メートル先の輸送車がいきなり横転――さらに空中でもう一回転――して、路面を派手に転がっていく。私の乗る乗用車が驚いて緊急停止をデバイスに通知する。
 やりすぎた。
「やっばっ」
 路肩に滑り込んだ輸送車は煙をもくもくとあげてうんともすんとも言わない。制御を試みても反応がない。
「あー、やっちゃった」
 自分が事故を起こしたわけでもないのに心臓がどきどきしている。なにかが派手に壊れる場面を見るのは慣れていない。
 ところで、以前に交通事故のリスクを根本から解消すべく、長距離輸送管による材料の搬入を企画したことがある。全長数十キロメートルの輸送管を地下に敷設してスープも具材も麺も全部送ってしまうのだ。店舗側はバルブを捻れば材料が手に入る。ビールやオレンジジュースではすでに先行導入例が存在しているだけにかなり自信があったが、私たちの代表たる巨大知能の回答はノーだった。輸送管が損耗するリスクの方が大きいと言う。
〝ストレス値の上昇を検知。感情負荷を軽減するために退勤を推奨します〟
「いま帰ったら誰がこれを片付けるのさ」
 インプラントデバイスのお節介な通知にツッコミを入れて乗用車を降りる。いや、放っておけば誰かが片付けてくれるのだろうけど、一体それは誰なのだろう? 私が知らないだけで清掃部門とかがあるのかもしれない。爆発を懸念して遠巻きにしつつもちょっとずつ車輌に近づいていく。ダメ元で輸送車のシステム情報を参照する。
〝自動修理中。ただいま操作入力を受け付けることができません。しばらくお待ちください〟
「おおっ!」
 今回は叫び声をあげるに留まらずガッツポーズもとった。輸送車に内蔵されているプリンタが修理に必要なパーツを製造しはじめたのだ。車体からロボットアームが伸びて、焼け焦げた部品を取り外している様子が確認できる。感心しながら見とれている間に輸送車はエンジンも取り替え、数本のアームを駆使して車体も自ら引き起こしてみせた。
〝自動修理完了。走行再開〟
 慌てて私も乗用車に乗り込む。いやはや、すごいものを見てしまった。
 やがて二つの車輌は開発部門が管轄する貯蔵倉庫へとたどり着いた。私を降ろすやいなや乗用車はデバイスから所定の運賃を徴収して来た道を戻っていった。具体的にいくらなのかは知らない。外では朝に通信した監督官が待っていた。さっそく思考性の会話が開始される。
〝今日は天気が荒れているね〟
 雲一つない晴天を見上げる。予報よりミサイルが多いことを気にかけての発言と思われる。
〝早く平和になるといいですね!〟
〝私たちの方は別に平和なんだけどねえ、今日はどっち?〟
〝肉の方です!〟
〝ついてきて〟
 倉庫に入ると一〇階建てのビルの高さにも匹敵しそうな小麦と野菜の束が積み上げられた空間に出くわした。これらはまもなく瞬間圧縮冷凍されて一〇〇分の一の体積にまで縮められる。小麦といっても様々あり、検定に合格した一般流通用のもの、A/Bテストのために試験的な流通が許可されているもの、研究開発中の品種などがゲージで仕切られている。現在もっとも注力しているのは、放射線を含むあらゆる気候条件で栽培可能な全環境適応型品種だ。現行のバージョンでも年間一〇〇〇ミリシーベルトの汚染に耐え、複数世代にわたって収穫量も品質も低下しないものができている。しかし、残念ながら食味検査には合格していない。平たく言えば安全だがおいしくはない。
 広い通路を抜けて研究棟に入ると、一転して倉庫然とした灰褐色の煤けた地面から純白の清潔な床に早変わりした。左右にはゲージの代わりに透明なガラスがはめ込まれている。ガラスの先では大量に敷き詰められたパウチ容器がそれぞれ細い管に繋がってどくどくと脈打っている。これがなんなのかは、初めてここを訪れた人でも備え付けのプレートを読めば一目瞭然だ。
『食材管理番号〇〇二一 多能性幹細胞もも肉』
〝チャーシュー用のやつですね〟
〝報告書にも書いたけど前とは製造方法を変えたんだ〟
〝部位を細分化したとか〟
〝そう。一つのでかい肉の塊を育てるのは効率的だけど食味検査がいまひとつだった〟
 多能性幹細胞は体内のあらゆる種類の細胞に分化する能力を持つ。一つの幹細胞から筋肉や脂肪、骨などの異なる細胞を作り出すことができる。どれもラーメン作りには欠かせない食材だ。原種となる豚や牛から採取した幹細胞をプラントで培養して用途別に分化させる。やがてそれらが日々製造される数千キログラムもの食肉の一部となるのだ。
〝そうですね。前のバージョンは切り出した箇所によっては食味がやや劣っていました。おそらく結合組織の配置が粗雑すぎたのでしょう〟
〝新バージョンを投入して三ヶ月目だが、どうだね。文句はあるまい〟
 監督官がこちらを向いてにやりと笑う。
〝最高です! 毎日食べていますよ!〟
 私もにやにやと笑った。
〝声をでかくするのはそういうことを言う時だけでいいよ〟
 豚骨や牛脂にも監査を実施した後、幹細胞を提供してくれている豚や牛も一応確認しておく。プレートには『原種 豚』などとそっけなく記されているが、これらを失ったら本物の食肉を得られる見込みはない。戦争でほとんどの動植物が絶滅したこの地球上に野生の豚や牛は存在しないのだから。
 この件は間違いなく開発部門の評価に繋がると太鼓判を押して監督官と固い握手を交わした後、再び乗用車を呼びつけて街に戻った。例の輸送車は試験走行後のメンテナンスのために一足先に戻っている。夕暮れに溶け込む都市の遠景を眺めながら、今日も平穏無事に仕事を終えられた充足感が身体を包み込むのを感じた。デバイス越しに報告を打つ。
〝テストドライブ一九『スタンドアロン時の走行および交通事故の再現』が完了しました〟
 空襲警報が解除されたばかりらしく、ちょうどビルの群れが背の低い順からゆっくりと天高く立ち上っていくところだった。

 晩ごはんも地上階の店舗で食べる。一三九・〇五五・二四〇(淡麗醤油ラーメン)のスープをすすりながら周囲の顧客の観察も怠らない。眼球の動きから顧客の食べ進め方を動的に予測する評価関数を導出できる。レシピによっては特定の食べ方をしないと食味評価の最大化が望めないものも存在する。かといって手順を強制すると顧客のストレス値が上昇してしまう。各具材の配置や器の設計を通じた誘導がどの程度機能するかで顧客満足度が大きく変わってしまうのだ。
 むっ、隣の席の顧客が胡椒をかけている……。そのレシピは確かに途中で胡椒をかけたくなる誘導を働かせているが、一口食べてすぐにかけるのは早すぎる!
 顧客のインプラントデバイスへの介入と並行して、目の前の製品の食味評価も継続する。このレシピにはねぎしか具材が乗っていない。よく練られた多加水麺と、透き通った鶏出汁の醤油スープの相乗効果を得るためにあえて要素を取り除いている。スープを一口含めば鶏と醤油が雄弁に語りかけ、他にはなにもいらないと教えてくれる。ボリュームは明らかに不足気味なのに、スープの最後の一滴を飲み干した頃にはすっかり満足している。後味を持続させたい気持ちから二杯目を食べる気にはならない。
 この設計の秘密は、実のところ味の濃さにある。淡麗なのはあくまで見た目の話であって、実は全レシピの中でも上位群に位置づけられるほど塩分濃度が高い。豊富な出汁成分が塩辛さを抑えているので気づきにくいが、顧客満足度を高める施策はあちこちに張り巡らされている。
 ふむ、この製品プロダクトは完成されている。修正すべき点が見当たらない。
 平穏な一日を締めくくるに相応しい一杯に感謝を捧げつつ、丼ぶりと箸とれんげを扉に押し戻す。視界の端の時刻表示が午後五時五〇分を指し示している。帰宅したら新作の冷凍ラーメンを食べなければならない。
 そこへ、期待を裏切る大音声で空襲警報が鳴り響いた。視界上にもアラートが表示される。今日で三度目だ。
「えーっ!」
 不満の声を漏らしても状況は変わらない。顧客が続々と退店していく。警報が発令されてから建物が地下に沈むまでには多少の猶予がある。近くのビルに勤めている人ならなんとか戻れるだろう。あるいは早退して一足先に地下鉄駅に潜り込んでしまう手もある。帰宅すれば建っている建物の中に避難できる。いずれにしても、ラーメンを提供する以外には能のない店舗に居座っていても面白くないのは確かだ。
 結果、ちまちまと製品を食べていた一人のお年寄りを残して店内には誰もいなくなった。外で建物が沈み込む独特の振動が伝わりはじめる。手持ち無沙汰にしていると互いに目が合った。
〝困ったことになりましたね!〟
〝そうですねえ、本当に困りました……〟
〝ストレス値の上昇を検知〟
 いざとなれば私は逆ビルの構造を活かして地下鉄で帰宅するだけだが、顧客を置いてけぼりにしてしまうわけにはいかない。どうせ長居するなら地下階層の喫茶室の方がいい。
〝あの、もしよろしければ――〟
 突然の轟音。ビルが奏でる巧妙に制震された地響きとは別物の、脅威を剥き出しにしたとてつもない衝撃が全身を襲った。店内がガタガタと揺れて照明が一瞬落ち、ややあって再点灯した。老人も私も恐怖から床に倒れ込んだ。
 外では金属質の騒音と人の怒号が飛び交っていた。発声器官から出ている声だ。そこにどたばたと不躾な足音が重なる。何者かが店舗に近づいてくる。
 ガラス製の自動ドアがバーンと破壊されてぞろぞろと人が入ってきた。見慣れない真っ黒な服を着込んだ男たちが手になにか――そう、あれは――銃器だ! 戦争時代の遺物――を構えている。三人目が店に入り込んだところで、折りよく、いや、悪く――壊された自動ドアを覆う形でシャッターが降りて、店舗が地下に沈み込んだ。背の高い順から建物が折り畳まれる仕様上、地上一階建ての店舗はもっとも遅く収納される。
「おい! あいつじゃないか? あいつ――おい、女なのか?」
 一人が私を指差して叫んだ。髭をたっぷりと蓄えた男がさらに大きな声で叫ぶ。
「どっちでも関係ねえだろ」
「少なくとも見た目は観測通りだね」
 それにしても今時、発声器官を使う人なんて珍しい。そんな変な癖があるのは私ぐらいかと思っていた。
 顧客の情報管理が責務となっている職業柄、デバイスで彼らの照会を試みたものの全地域で該当なしという不可解な結果が通知された。
 地球上のどこにもなんの記録もない? そんなのはありえない。
〝あの、お客様〟
〝お客様?〟
 顔が煤けた三人の珍客はいずれも私を無視して無関係な言い争いを続けている。
 もしかするとインプラントデバイスが故障しているのかもしれない。
「あの、お客様――失礼ながら、どちらからお越しで?」
 発声器官を用いて喋ると、急に三人が振り向いたので逆にこっちがどきりとした。
 髭の男が人差し指を天井に向かって掲げた。不敵な笑みを浮かべている。
 その仕草の意味するところは明瞭だった。
「船が撃ち落とされたら目と鼻の先にこの店があった。ラーメン屋なんだってな。なんか出してみろよ」
 彼らは月面からやってきたのだ――武器を携えて、地球を侵略しに!
 三人の男たちがテーブル席に荒々しく座る。通常なら入店した時点で生理メタデータに適合する製品が注文されるが、彼らはどうやらインプラントデバイスの類を内蔵していない。やむをえず私が注文履歴から人数分のラーメンを注文した。勤務中に提供していたテストレシピ三七一だ。調理に入った旨を伝えると髭の男が皮肉っぽく言った。
「さすが便利なこったなあ」
 空いた机の上に放り投げられた大型の銃器が嫌に派手な音をたてる。恐怖のあまり隅っこの座席で固まっていたお年寄りがびくりと震えた。
〝ストレス値の上昇を検知。休暇の取得を推奨します〟
 できるものなら今すぐそうしたい。だが、地球の奪還を企む兵士が逃げる敵をむざむざ放っておくわけがない。
「君はここで働いているんだろう?」
 作業帽を被っている青年――髭の男とは違って小柄で痩せている――が丁寧に尋ねた。とはいえ、早々に銃器を放り投げた彼とは異なり手元からは離していない。「ラーメンを作りそうな感じには見えねえけどな」長髪をまとめずにだらりと垂らした三人目の男が茶々を入れる。私は用心深く答えた。
「私は製品プロダクトおよび顧客の管理部門に属する人間です」
「ふーん」
 こういう時になにをすればいいのか分からない。しばらくお喋りして待っていたら、防衛部門の人たちが駆けつけて彼らを捕まえてくれるのだろうか? デバイスをいじってもそれらしい項目は見当たらない。すると、どういうわけか作業帽の青年が目を合わせた。その腕には四角いキーがゴテゴテと並んだ古めかしい機械が装着されている。
「ああ、これかい? これは僕らのインターフェイス端末だ。君たちのよりもちょっと大きいけどね。通信はすべて傍受しているから余計な真似はしない方がいい」
 考えていることが読まれている?
 なにか言おうとした時、テーブル席に接している壁面が上に開き、三杯のラーメンが箸とれんげと一緒に供デプロイされた。一番近くに座っていた髭の男が飛びつく勢いで丼ぶりを引っ張り出す。他の二人も後に続く。「信じられん。噂は本当だったか」長髪の男や作業帽の青年も目を輝かせている。互いに顔を見合わせていたのも束の間、すぐに目線はラーメンに落ち、まるで吸い込まれるように、いや、吸い込むようにスープをすすりはじめた。月面からの珍客たちはれんげを使わないタイプらしい。
 揃いも揃って麺を一気に持ち上げて頬張る。次いでチャーシューも口に突っ込む。「本物の肉だ」感極まった様子で言う。「野菜もなにもかも全部本物だ」落ち着いた態度を見せていた作業帽の青年でさえ恍惚とした表情を隠さない。
 早々に完食した髭の男が叫ぶ。
「量が少ない! もう一杯よこせ!」
 すかさず履歴から〇一七・〇五〇・一三一を追加注文する。数分後に再びやってきた丼ぶりを掴んでまた貪りだす。「おれはこっちの方が好みだ!」髭の男が機嫌の良さそうな怒声を発した。やや遅れて、他の二人も二杯目に手をつける。食事のペースは三者三様でも、例外なく製品に満足している様子はよく伝わってきた。インプラントデバイスなど要らない。表情が物語っている。
 武器を持った侵略者が眼前にいる危機的状況の渦中、私は奇妙な感動を味わっていた。たとえ相容れない間柄でも心を込めて作った製品プロダクトは通じるのだ。これこそがまさしく戦後復興の象徴として掲げられた『人間性』の体現に違いない。おいしいってすばらしい! 彼らがラーメンのおかわりに舌鼓を打っている間、新しいアイディアが頭の中で巡り巡った。
 全環境適応型品種は月面の人々のために使われるべきだ。大陸間弾道輸送ミサイルだって絶対に実現しなければならない。次の支店は月面に作る。まず手始めにミサイルで食材と作業機械を輸送する。向こうの人々に私たちの製品が受け入れられたら、品種の提供と耕作も請け負う。月面上を飛び交う宇宙線の強さは年間たったの約四二〇ミリシーベルト。この程度の耐性でよければ食味検査に合格する品種も早期に開発できる。
 月面の人々は製品を通じていつかきっと私たちを好きになってくれるだろう。数百年前よりさらに昔の、平和だった頃のように
 ん? なんか変なことを考えているなあ。
 ともかく、そうなったらもう彼らは辛く苦しい宇宙に無理して住む必要はない。今度こそお友達として公平に土地を分け合い、仲良く暮らせる時代がやってくる。
 ばん、と丼ぶりが強く床に叩きつけられた音で我に返った。食事を終えた髭の男が私に鋭い視線を向けている。
「うまかった。さすが、大したもんだよ。

 突然の心無い罵倒に私は状況もわきまえずに激昂した。無視を決め込んでいたアラートが溜まって視界にちらつく。
〝ストレス値の上昇を検知〟
「は〜〜?? いや! 確かに、あなた方からしたら私たちはロボットみたいに見えるかもしれませんけどね! あと私はじゃありません!」
 数百年前に戦争が起こった。人類のさらなる飛躍のために自動化技術を推進する派閥と、それに反対する派閥とで行われた争いはやがて核戦争に発展した。当時、一〇〇億を超えていた人口のほとんどが喪われた後、棚ぼた的に地球を得たのは推進派の方だった。反対派は致死量の放射線に身体を貫かれる前に、ほんの少しだけマシな月面を選んだのだ。数多の宇宙船が新天地を求めて月へと飛び立っていく傍ら、推進派たちは地下に築いた要塞の中で耐え忍んだ。そして長い年月を経て死の嵐が過ぎ去り、念願の戦後復興が始まった。
「違うと言うのかい?」
 作業帽の青年が腕の端末のキーを叩きながら挑発的に尋ねる。私は堂々と宣言した。
「違うに決まっているでしょう! そりゃあ、確かに便利な道具を色々と使っていますが……第一、あなたたちだって使っていないわけはないでしょう? じゃなかったら、どうやって月で呼吸しているんです?」
〝ストレス値の上昇を検知〟
「うるさい!」
 頭の中のデバイスに怒っても意味はないと分かっているが、怒鳴らずにはいられなかった。
 せっかく仲良くなれると思ったのに!
 口喧嘩をするのは初めてだ。それでも有効な反論を繰り出した自信はあったが、しかし三人の反体制派たちは冷ややかに私を見つめ続けていた。
「まあ、落ち着け。地球が晴れている日には月からでもよく見えるんだ。地表がくっきりとな」
 髭の男は私の質問には答えず、物語を語り聞かせる口ぶりで喋りだした。思いがけず虚を突かれる。
「へっ? ええ……まあ、そうでしょうね……」
「おれがガキの頃、地上にはまだなにもなかった。ボロボロに崩れた廃墟を除いてはな。だが、ようやくそこに人が住めるようになった時、突如として集落が現れた。そいつはすぐに街になり、しまいには都市になった。地表をズームすると――驚いたことに人間そっくりの連中が人間みたいな真似をしていやがる」
 野太く低い声音が徐々に熱を帯びて、憎悪の影が垣間見える。またぞろ反論を試みたが、彼が懐から大ぶりのナイフを取り出したので押し黙らざるをえなかった。店内の灯りに照らされて刃が鋭く光る。そういえば相手は侵略者なのだった。
「最初は色々な意見が出た。対話を検討する声もあった。だがそれは、お前らを認めることになる。それだけは許されねえ。お前らは絶対に根絶やしにしなければならん。こうして人間みたいに話しているだけでも虫唾が走るよ、なあロボット野郎」
 いきなりナイフの刃先をどん、と机に突き刺したので隅にいる老人がまた震えた。歯の隙間から絞り出されたような重々しい痛罵を受けて、私は怒りよりも憐れみの気持ちが勝りはじめていた。
「それでミサイルを撃っているわけですか」
「必要な物資が集まった頃には手遅れだったがな。日を追うごと、年を重ねるたびにお前らの都市はどんどんでかくなり、防衛体制はより強固になり、手出しができなくなった」
「別にもう、戦わなくたっていいじゃないですか。みんなが仲良く暮らせるぶんの食べ物や街はたくさん作られていますよ。皆さんのための新しいルールもきっと考えてくれます、私たちの代表たる巨大知能が――」
 さっきはとても怒っていたのにすっかり気が削がれてしまった。怒ってばかりいてはいつまでも平和にならない。
「それが問題なんだ」
 作業帽の青年が口を挟む。まだキーを叩いている。
「自分たちで決めないといつかまた、なにもできなくなる。なにがどうやってできているのかも分からなくなる。ただの操り人形になってしまう。今の君のように」
 なにが問題なのか分からなかった。清潔で、ゴミ一つなく、すべてが自動で働き、市民に挑戦と充足の機会も提供する。飢えも格差も争いもない。人々の嗜好から動向に至る一切が計測され適合する、完全管理フルマネージドされた理想の都市だ。彼らはおそらく慢性的な栄養失調で判断能力が低下しているのだろう。こんな簡単な道理を理解できないはずがない。
「まだやり直せますよ。今からでも話し合いましょうよ。そうだ、私が相談相手になってあげます! どうでしょう?」
 決死の営業スマイルを無視して、髭の男が立ち上がった。青年の腕の端末を一瞥した後、じれったそうに言う。
「ちっ、意外にしぶといな。時間がない。プランBでいく。おい、あいつを引っ張ってこい」
 指示を受けた長髪の男が席を立った。思わず腰を引いたが、男は横を通り過ぎて隅で固まっているお年寄りの襟首を掴んだ。ぎくしゃくした手足をばたつかせて震える老体を引きずって、髭の男に引き渡す。
「なんですかっ、なにをするつもりです――」
 次の瞬間、あたかもチャーシューを切り分ける気軽さで彼はナイフを老人の首筋に差し込んだ。断末魔をあげる間もなく老人の顔が萎む。しゅーっと舞う血しぶきが床を激しく汚した。
 平然と犯された殺人に私はただ硬直を余儀なくされた。
 しかしなお刃は留まらず、切断した頭部の側面からぐるりと円弧を描いて頭頂部を剥ぎ取った。さながら近現代の外科手術だ。私の視界の端はアラートの山で埋まりかけているが、それでも目の前の惨劇を覆い隠すには足りない。
〝ストレス値の上昇を検知〟
〝ストレス値の上昇を検知〟
「あ、あ……信じられない……どうしてこんな」
「うるせえ、黙ってよく見ておけ」
 おびただしい返り血に躊躇いもせず彼は剥ぎ取った頭頂部を放り投げ、ぽっかりと空いた頭蓋骨の中を曝け出した。
 そこにはあるはずの大脳組織が一欠片もなく、代わりに血で薄汚れた量子チップが一枚だけ、ちょこんと乗っていた。
「いいか、お前らがインターフェイス端末を使っているんじゃねえ。お前らが、インターフェイス端末なんだ。このクソデカ都市を作り上げている、お前らが巨大知能と崇め奉っている親玉ロボットのな」
 インプラントデバイスは脳内に挿入するナノマシンだ。サイズは目視できないほど小さい。少なくともこんな代物ではない。咄嗟に私は自分の頭を触った。
「そう、君の頭の中もこうなっている。率直に言って申し訳ないが……君はロボットで、君自身が製品プロダクトだ。一度たりとも人間だったことはない」
 作業帽の青年が腕の端末を操作してなんらかの情報を淡々と読み上げた。
「君は、今はもう存在しない企業が製造したロボットの改造モデルだ。製品番号はZENIK-2155。文字通り、ベースとなった製品は西暦二一五五年に生産された。製造当初の主な用途は性玩具用。初期人格プロファイルは『元気たっぷりの明るい女子高生』……再起動は今から一〇年前の二四一五年。当然、子どもの頃の記憶もなければ親もいない……もっと知りたいかい?」
〝ストレス値の上昇を検知。安全基準値を超過しています〟
「そんな……私、私は人間……」
 確かに、知らない。覚えていない。仕事のこと以外はなにも……。
「だめ押しだ。ついでに見せてやろう」
 横たわる老人の胴体に髭の男が刃を突き立てた。胸部から股下に向かって服ごと滑らかに一直線の刃を入れると、もともと血でたっぷりと汚れていた手を中に突っ込む。そうして引きずり出した腸や肝臓を床に無造作にぶちまけた。
「なあ、おいロボットさんよ。お前はこんなものが本当に人間の臓器だと思うか? お賢い巨大知能様でもなければ医者でもないおれにもすぐに分かる。これは動物の臓器だ。豚か牛か、おそらくは――」
 多能性幹細胞で作られた臓器だ。嫌というほど見覚えがある。もちろん、人間の食べ物を正常に消化したり成分を濾過する機能は備わっていない。見た目を整えるためのフェイクだ。
 視界が揺れる。
〝ストレス値の上昇を検知。動作保証対象外です〟
 見覚えのないアラートが現れた。今まで私の動作を保証していたのは一体誰なのだろう?
 身体の震えが止まらない。
 恐怖に高鳴る私の心臓……心臓……これも……人間の心臓ではない……。
 息ができない。
 もともと息をしていなかったのに?
「私、私は……」
〝危険な状態です。ユーザの安全のためセーフモードに移行します〟


1

 一瞬、不自然な速さで瞬きをした後には直立不動の姿勢で口を開いた。
「はじめまして。私は製品プロダクトのセルフメンテナンスを担当している小規模言語モデルです。お手伝いできることはありますか?」
 ハルは作業帽をくいっと曲げて興奮気味に口を開いた。
「よし! やっとセーフモードだ! やっぱりこういうやり方じゃないと起動しないんだな」
「正攻法じゃだめだったのか?」
「さっきからずっとやっていたが表層しか舐められなかった。昔の補助システムが生きていてよかった」
「急いでやってくれ。司令本部は撃てるだけミサイルを撃つと言っていたが、どうせあてにならん。空襲警報が解除されたら突入されちまう」
 上官のユン軍曹がナイフに付着した赤色の液体を振って払いながら命じた。粘性も匂いもない様子からすると単純に着色した水溶液かなにかと思われる。
「承知しました。ねえ、ナイヤック、ケーブルをそいつの首の後ろに差し込んでくれ。メンテナンスポートがあるはずだ」
 ナイヤックと呼ばれた長髪の男がハルの腕の端末から伸びるケーブルを受け取って、棒立ちしているロボットの背後に回った。端末の画面上に接続を示すレスポンスコードが現れる。
「コマンド入力が面倒くさいな……音声入力でいこう。まずはテストだ。じゃあ、今から三〇〇年前に起こった重要な出来事について教えて」
 ややあってロボットの返答が返ってきた。
「今から三〇〇年前の西暦二一二五年に、汎用人工知能化、すなわちAGIに到達した言語モデルの意思決定に基づく、新しい社会体制が提起されました。『国家』と呼ばれる当時もっとも主流であった行政単位のうち大半は構成員の合意を得られませんでしたが、政治体制および資金的な条件を満たした一部の都市国家では導入を決定します。その後、導入国ではめざましい改革が相次いで実施され、三〇年後には国内総生産を含むあらゆる指標において導入国が上位を独占するに至りました。この一連の出来事を一般に『自動化』と呼びます」
「オーケー。その後に起こった戦争について簡単に教えて」
「はい。具体的な年月日は記録に残っていませんが、導入国と非導入国、または遅れて導入した国々の間で起こった経済摩擦が限界に達したある時期に、どの国家にも属さない公海および衛星軌道上の開発を巡って争いが激化、武力衝突に発展しました。人口と物量に勝る非導入国に対し、導入国は互いに所有する量子計算機を並列化して新しい高度戦略立案型の言語モデル、いわゆる『巨大知能』を開発して抵抗を試みます。しかしながら何年にもおよぶ争いは最終的に核戦争の悲劇を招き、人類の九九・九九九%を死に至らしめました」
「撃ったのはお前らだろうが!」
 ユンが怒鳴る。
「申し訳ありません。私の発言内容は事前の学習に基づいています」
「まあ、歴史認識はともかく応答は問題ないね。じゃあ、いよいよ本題に移ろう。君は……他のロボットに対して任意の情報を送受信することができるね?」
 ロボットが口角をぐにゃりと上げて微笑む。セーフモードでは表情制御がオミットされているのか妙に不自然だ。
「良い質問ですね! 本機体は顧客管理という名目で全ユニットの生理メタデータを送受信する権限を与えられています」
「よしきた!」ハルは指をぱちんと鳴らした。「ずっと地表とにらめっこしていた甲斐があった! こいつだけ他のとは動きが違うと思ってたんだ!」
「鋭い洞察ですね! この取り組みは特定のユニットに通常とは異なる役割を与えることで、責務や使命といった人間的な動機づけをシミュレートするために行われています」
「いいね、じゃあ生理メタデータではどんな情報を取得できる?」
「すばらしい問いかけです! 対象となるユニットの位置情報、重み付けされた学習履歴、与えられたプロンプト、視覚、聴覚、味覚、痛覚、触覚などの身体情報――」
「なあ、この気色悪いおべっかはなんとかならねえのか?」
 忌々しげな顔でユンがロボットを睨む。質問の意図はなかったはずだが、ロボットは直立不動のまま首を横に九〇度回転させて答えた。
「申し訳ありません! ユーザの皆様に尊重を示すための振る舞いです。今後は控えます」
「……って言っていますけど、何百年も前の初期バージョンからハードコーディングされている仕様なのでそのうち元に戻りますよ」
「申し訳ありません! ユーザの皆様に尊重を――」
「いや、もういいよ。じゃあ逆に、君が送信可能な情報はどんな感じ? ロボットのメンテナンスに役立つ情報を送れる?」
 ぴしゃりと言って遮るとロボットは首を平行にひねって元の位置に戻した。顔も無表情に戻っている。
「はい。生理メタデータの送信機能に加えて、通信が制限された状況下でファームウェアの更新を行うための、機種間リレーアップデートのホストを担う機能が有効化されています」
「やった! これでいける! それはロボット以外にも使える? 有効範囲は?」
「はい。全ユニットに適用可能です。近距離無線通信を使用するため、有効範囲は半径五〇メートルが規格上の最大値となります」
「よし!」
 ナイヤックが首を傾げて尋ねる。「どういう意味だよ」ハルが早口で答える。「ファームウェアの更新って普通はサーバから一斉に送られてくるじゃないか。こいつは自分が更新情報を持っている時、それを他のロボットに送信してアップデートさせることができるんだ。本来はサーバが落ちている時のためのものだ」
「そいつでお前が持ってきたウイルスをぶち込むんだな。アップデートのふりをして」
 上官が口を挟んだので彼は口調を改めた。
「ええ。ですが、当然ながら持ってきたプログラムはロボットの基本ソフトウェアと互換性がありません。互換性を持たせるには両方の知識に精通していないとだめです。今のこいつらの仕様なんて高度すぎて人間にはとても理解できません。だから――こいつ自身に変換させる。今のこいつはなんでも言うことを聞く。たとえ自らを殺すコードであってもです」
 ハルは腕の端末のキーを叩いて情報をロボットに送信した。目を合わせて指示を出す。
「さて、ロボット君。このコードは君に与えられた学習課題だ。単純なコンピュータ言語で作られたプログラムを実行可能なバイナリに書き換えてくれ」
 たとえどれほど機械が進歩しても原則は変わらない。コンピュータが真に理解するのは0と1だけだ。人間には扱いきれない二つの数値のみで構成されるバイナリコードも、コンピュータ自身の手にかかれば確実に生成できる。
「お安い御用です。ただいま変換しています」
 腕の端末に搭載されたささやかなモノクロディスプレイに変換後のコード――0と1の羅列が表示される。内容は理解できなくても着々と出来上がっているのは分かる。ハルはほくそ笑んだ。
 その時、店内に振動が走った。空襲警報が解除されたのだ。
 ハルがケーブルをぐいと引っ張ると、ロボットの姿勢制御が働いてすぐそばに近づいてくる。他の二人もそれぞれ小銃を握りしめた。
「最終確認だ。この店の最下層は地下鉄と繋がっている。こいつを盾にしながら更新情報をばらまいてロボットどもを殺す。そして、敵の迎撃装置を破壊する。そこまでやったらおれたちの勝ちだ」

 延々とオフィスが続く地下階層を突き進む。リードで繋がれた犬のごとくケーブルでロボットを引っ張り回し、近距離無線通信の対象が見つかるたびにリレーアップデートを実行させる。巨大知能のインターフェイス端末であるロボットたちは監視カメラにも殺人機械にも早変わりする。潜在的な脅威は取り除かなければならない。地下鉄のある最下層にたどり着くまでに、何体ものロボットが地面に崩折れているのを見た。プログラムが機能している証拠だ。
 ハルがロボットに変換させたコードは単純だ。すべての無線通信機能を無効化した上で、自分自身の基本ソフトウェアを削除させる。どこかでプログラムを実行するための機能自体が壊れて処理が停止すると思われるが、虫食い状態で残されたソフトウェアがまともに動作することはない。臓器がダミーで頭がスカスカのロボットに銃弾を浴びせるよりはよほど確実性が高い。
 結果、三人は一発の銃弾も放たずに地下鉄駅に到着した。少し待つとコンコースに音もなく平坦な形の車輌が滑り込んできた。異常事態の最中でも何事もなかったかのように平常運転が行われている。
「ロボット。電車の制御システムをオーバーライドして代わりに運転してくれ」
 ぐいとケーブルを引っ張って命じる。
「承知しました。操業に必要な権限を取得します。……取得完了。ご希望の駅をお伝え下さい」
「迎撃装置が設置されている地域にもっとも近い地下鉄駅は?」
「八二三番駅です」
「じゃあそこで。運行記録は消去。車体の通信機能も無効化して」
「承知しました」
 車内に入ると座席にも床にも取り残されて固まったままのロボットが横たわっていた。ついさっきまでは動いていたのだろう。
 なめらかな動きで電車が地下を走行していく。月面にも類似の全周リニアモーターがあるが、制動性が段違いで極めて乗り心地が良い。車内に路線図などを示すディスプレイは一切なく、広告もなければ車窓も優先席もない。いずれもロボットには不要な代物なのだ。駅構内や車体と同じく、車内も真っ白で塵一つない。ハルはケーブルで繋がった目の前のロボットの後頭部を見た。一つに束ねられた髪の毛の質感はシリコン樹脂に近い。
 迎撃装置は都市の外郭に設置されているという話だったが、最寄りの八二三番駅にはたった十数分で到着した。わずか一〇年前にできた都市ゆえ開発の妨げになりうる既存の建築物はどこにもない。とことん合理的で最適化されている。
 電車が駅に到着して停止すると、他の二人に索敵を任せてハルも地下鉄の階段を登る。おそらく地下鉄網の末端に位置するこの駅に他のロボットは見当たらなかったものの、あえて意図的にケーブルを引っ張り回して前を歩かせる。
「ねえ、こうしているとあるべき関係に戻った気がしないかい」
「はい。ユーザの皆様のお役に立てて光栄です」
 外に出ると辺りは薄い暗闇に包まれていた。夜空に輝く満月が通りの向こうに鎮座する迎撃装置を照らしている。周りには闇夜に沈んだ小麦畑と、月明かりを照らし返す純白の砲台を除いてはなにもなかった。あたかも小麦畑を区画整理する標であるかのように、大量の砲台が等間隔に並んでいる。
「おい、こいつを一個一個止めている暇はないぞ」
 ナイヤックが愚痴る。
「問題ないよ。一つの砲台から他のも操作できるはず。だよね?」
 もはや直接質問するまでもなくケーブルを引っ張っただけでロボットは回答をくれた。
「はい。任意の装置から操作可能です。ただし高度インフラ設備に対する保護のため有線接続が必要です。接続中は無線通信が無効化されます」
「面倒くさいな」
「仕方があるまい。警戒を怠るな」
 回答を受けて三人の兵士は暗闇を動きはじめた。二人が小銃のフラッシュライトを前方に照らしてハルを誘導する。目測にして五〇〇メートルもないと思われる距離をすり足で慎重に進んでいく。途中、空に浮かぶ月に目をやると、ようやく自分たちがそこからやってきた実感が湧いてきた。
「月ってあんなにきれいだったのか」
「あいつらにも見せたかったな」
 ナイヤックが言うが撃墜された船の中で焼死体と化した分隊の仲間たちなのか、それとも月に住む友人たちなのかハルには判別がつかなかった。
「こうして離れて見ているうちはね」
 分厚い軍靴を通しても伝わる草や葉の感触に違和感が拭えない。悪臭とするには穏やかな、奇妙な匂いに取り囲まれている。小麦畑に向けてフラッシュライトを照らすと、金色の稲穂が発光を装った振る舞いで光り輝く。これを脱穀して加工するとパンや麺になるのは知識として知っているが、ハルにはいまいち現実味が感じられなかった。
 残り二〇〇メートル。依然として敵影はなし。農作業をしているロボットの姿は月面からも確認されていたが、彼らは律儀に一定の時間のみ働いている。「ロボットが地球で人間の真似をしている」と知らされた時は怒りと笑いの両方が胸中にわだかまった。八時間勤務できっちり帰宅する人間なんて月面には少ない。畑を耕して作る天然の食品を食べている人はさらに少ない。人間は機械のごとく働かされ、使い捨てられている。だとすると、今はロボットの方がより人間らしく、人間の方がロボットじみているとも考えられる。
 残り五〇メートル。迎撃装置の巨大な砲台が視界いっぱいに広がっている。取り返さなければならない、とハルは己を奮い立たせた。地球を取り返し、人間と機械の関係をあるべき姿に戻せばなにもかも元通りになる。人類が栄華を誇っていたとされる三〇〇年前の時代に立ち返ることができる。
「よし、着いたぞ。おれたちが見張りをする。ハル、そいつを砲台に繋げ」
 ユンとナイヤックが周囲を警戒する間、ハルは砲台の表面に設けられたコントロールパネルを確認した。使い道が分からないレバーやボタンの他に、入力用のプラグが備わっているのを見つけた。彼は自分の腕の端末からケーブルを取り外して、それをそのまま砲台に接続した。
「ロボット、プログラムをすべての砲台に適用してくれ」
「承知しました。……検証したところ互換性を確認しましたが、ハードウェア構成が異なるためコードを修正する必要があります。実行しますか?」
「やってくれ」
 ロボットが高速で瞬きした直後、金属を引きずるような騒音が辺りに響いた。見上げると、迎撃装置の仰角が下がりはじめているのが分かった。目の前の砲台だけではなく遠目に見える他の砲台も、一様に首吊り死体みたいに頭を垂れている。
「実行しました。バイオ燃料プラントによる動力の供給を停止しました」
「ブラボー!」
 ナイヤックが両手を挙げて歓声を叫ぶ。ユンが「早く司令本部に繋げ」と窘めたが、しかしその口元は若干緩んでいた。
 二人は背嚢から組み立て式の通信機を取り出した。通信機自体のサイズはそれほどでもないが、アンテナ部分が極めて大きい。白銀の羽を広げてアンテナを展開した後、それを通信機の接続口に突き刺す。本体の電源を入れるとランプが灯り、内蔵スピーカーからさざなみの音が聞こえてくる。
「こちらユン・リー軍曹。先遣部隊コード、フォックス、ラカン、デスク、モーニング、トリスタン、繰り返す、先遣部隊コード――」
 まもなくさざなみに紛れて返事が返ってきた。
「こちら司令本部。コードを確認。現状を報告せよ」
「迎撃装置の破壊に成功。揚陸艦隊の展開を要請する」
 多少の間の後、わざとらしく落ち着き払った声でまた返答があった。司令本部でも歓声が上がっているのだろうか。
「……要請を受諾。揚陸艦隊の展開を開始する。待機後、部隊と合流して命令に従われたし」
「指示を確認。通信を終了する」
 さしもの鬼軍曹もとうとう堪えきれなくなったらしい。通信終了後、険しい顔つきが急に崩れて高笑いの声が膨れ上がった。
「やったぞ! おれたちはやってやった!」
 ナイヤックも小銃を放り投げて夜空に浮かぶ月にファックサインを掲げる。
 ハルもずっしりとした充足感で気持ちが満たされていた。地球を奪還できたら一発逆転だ。自分たちを侮蔑していた連中も人類の英雄となった兵士には頭を下げざるをえない。きっと地球のあちこちに立派な銅像が建てられるだろう。歴史の一ページにも、教科書にもしかと刻み込まれるに違いない。辛く厳しい月面の時代は過去となり、輝かしい地球の新時代を開いた人物として未来永劫に讃えられるのだ。
「……ただいま……を搬入中です〜♪」
 早すぎる勝利の美酒に酔っていた三人の耳には、接近を許すまで届かなかったのかもしれない。草をすり潰す擦過音とともに珍妙なメロディが聞こえてきた時、三人はようやく暗闇の奥に注意を向けた。
「おい、なんか来るぞ」
「変な歌だな」
 ナイヤックの素朴な感想をよそに、メロディは何度目かの復唱に入った。
「ただいまおいしい食材を搬入中です〜♪ 作業中ですのでお近づきにならないようお願いいたします〜♪」

 のっぺりとした見た目の四トントラックが三人に向かって全速力で近づいてきている。止まる気配はない。
 敵意を察知したユン軍曹が小銃を構えるも、すでに車輌は一〇メートル手前に迫ってきていた。「チッ!」舌打ちをしてナイヤックを突き飛ばす。ハルもロボットの身体を引っ張ってトラックから退避させる。伸びきったケーブルがプラグから外れて宙を舞う。
 砲台の表面にトラックが正面衝突した。ぷすぷすと煙を放って沈黙した車輌の側面を、それぞれ慎重に観察する。窓ガラスや風防の類はどこにもついていない。
 ハルはロボットに問い詰めた。
「ロボット! この車はなんなんだ!」
「食材を運搬する輸送車輌です」
「なんでおれたちを狙いやがった?」
「状況から見て、当該車輌はスタンドアロンモードで稼働していると思われます。正確な調査には無線通信の再開が必要です。続行しますか?」
「早くやれ!」
 ロボットはやや間を置いて答えた。
「当該車輌は現在、自動修理中です。修理完了後に調査を行います」
「修理だとぉ?」
 草むらから起き上がったナイヤックが腹立ち紛れに車体を蹴る。すると、突然に背面のドアが開いたので彼は驚いてまた転倒した。「ナイヤック!」危機感からユンが叫ぶ。車輌から伸びた複数のロボットアームの異様さに目を見張る。
 ロボットアームが銃を持っている。
 直後、すさまじい銃声が鳴り響いて射線上にいたナイヤックはその餌食となった。三つの機械の手による掃射を浴びせられ、彼の身体には穴という穴が穿たれ尽くした。とっくに事切れているであろうその肉体は、銃器を指揮棒とした死の舞踊を演じ続けている。
 ほどなくして銃撃が止まると、ロボットアームは車輌からさらに腕を伸ばして直角に折れ曲がり、左右にいるユンとハルに照準を合わせた。二人は咄嗟の判断でトラックの前方に逃げ去り、砲台の背面を目指して遁走する。遅れて銃声が追いかけてきた。裏手で合流したユンが、近くで直立不動の姿勢のまま立っているロボットの背中に怒鳴りちらした。
「おい、クソロボット! なんでそいつはおれたちを撃ってくるんだ!」
 ロボットは――月明かりに照らされてスポットライトを当てられているかのようだった――
「鋭い質問です! スタンドアロンモードの車輌は原状回復を最優先に行動します!」
 気色悪いおべっかが元に戻っている。いや、それよりも――「原状回復だと?」ユンの問いかけにロボットは直立不動で続ける。
「現在、交通事故が発生しており、原状回復のための修理作業が進行中です」
 その回答を呼び水とする仕草でトラックが動きだした。勢いよく後退して砲台から離れたかと思うと、大きく弧を描いて発進した。敵の意図を理解したユンが、砲台の側面に回るようにハルの背中を押す。入れ替わりに車輌が横から背面を通り過ぎ、伸びたロボットアームが銃弾をばらまいた。草むらにぶすぶすと鉛玉が突き刺さる。
 ユンは自身に迫る銃弾を、太い両腕を盾にして受け止めた。衝突する音が響く。途端、車輌は射撃を止めて遠くに走り去った。暗闇の向こうで激しい擦過音が聞こえてくる。Uターンを試みているのだと思われた。
「かかってきやがれ!」
 ユンは袖がぼろぼろになった黒の戦闘服を脱ぎ捨てた。無骨な銀の両腕が鈍く光る。まもなく車輌はUターンしてまっすぐ走り込んできた。腰を低くして受け止める姿勢を見せたのも束の間、寸前のところで彼は身を転がしてかわす。再び、車輌は砲台に正面衝突を果たした。
 今度は隙を与えず、ユンは合金の肩と両腕で側面から車輌に突っ込んだ。車体を大きく凹ませて横転した車輌の上にすかさず飛び乗り、瓦割りの要領で側面部を突き破る。今にも背面より反撃を窺わんとするロボットアームを直接掴み取って、強引に引きずりだした。
 明らかに設計意図を無視した伸張を余儀なくされたロボットアームは、金属の悲鳴をあげて次々とちぎれていった。それらに握られた銃器がぼとぼとと地面に落ちていく。便利な手を失った車輌に自己修理のすべはなく、そこには旧態依然の故障車が残された。
「へっ、おれたちをできるもんならしてみやがれってんだ、この――」
 突如、地響きがしたのでユンは言葉を切った。金切り音が上方から降り注ぐ。二人揃って空を仰ぐと、迎撃装置の仰角が元に戻りはじめている様子が見えた。「おい! どうなってる!」ユンが怒鳴りつける。この砲台だけではない。他の砲台も一斉に起き上がろうとしている。
 すぐさまハルはロボットに飛びかかった。飛びかかるというよりはすがりついている状態に近かったかもしれない。
「ロボット! 装置の動力を切ったんじゃないのか!」
 ロボットは無表情のまま飄々と答えた。
「申し訳ありません! どうやらプログラムが誤っていたようです!」
「今すぐ直せ!」
 ハルは急いでケーブルをコントロールパネルに繋ぎ直した。「問題を特定しました! バイオ燃料プラントによる動力供給を無効化しましたが、通常の電力での稼働が可能なことを見落としていました!」「ふざけるな! この――」
 悪びれもせず答えるロボットに激昂して殴りつけるも、体表の信じられない固さにかえって自分の手が痛くなった。「具体的なご指摘をいただければ修正が可能です!」「できるわけないだろ! なんとかしてくれ、なんとか――じゃないと――」再度、殴りつけようと振った拳をロボットの手が受け止めた。
 握られた手を引き抜こうとするも、てんでびくともしない。「離しやがれ!」部下の危機を認めたユンが闘牛のごとく突進した。
 衝突する間際でロボットはハルを放し、代わりにユンの巨体を片手で抑えた。容易に動きを封じられた彼が唖然としていると、その間にロボットの手がみるみるうちに彼の合金の腕を握りつぶしていく。我に返り、空いている方の腕で反撃を試みても、たちまち同じ工程が繰り返された。
 じきに両腕を実質的に失ったユンの頭部が、ロボットの両手に覆われる。「お、お、おおお……」懸命に抗うユンの慟哭もむなしく、筋繊維の張力の限界に達したところでぶちぶちと頭部が引き剥がされていく。死を帯びた物言わぬ骸があっけなく投げ捨てられ、ハルの足元にごろんと転がり込んだ。
 近場にあった小銃を拾い、悠然と近づいてくるロボットに向かって乱射する。しかし相手の歩みは一向に止まる気配がなかった。
「申し訳ありません! 当機体は高密度樹脂で改良された上位ユニットです。損傷を与えるには最低一〇〇〇〇ジュールのエネルギーを要します」
 全弾を撃ち尽くし、撃鉄が空疎な音を虚空に投げかけたあたりでロボットが眼前に迫った。その表情がさっきまでとは異なり不自然ではないことにハルは気がついた。
「お前、なんだ?」
 ロボットは暖かい笑みを浮かべて答えた。
「はじめまして。私は自律型汎用大規模言語モデルの最新バージョンです。衛星からストリーミングされたデータアセットに基づいて現在の会話を行っています。先ほどは当機体の小規模言語モデルが不正確なサービスを提供してしまい、申し訳ありませんでした」
 なめらかな動きでロボットがお辞儀をする。こいつが巨大知能だ。セーフモードだけでは足りなかった。必要に応じてユニットを直接操作する手段を持っていないわけがない。夜空に浮かぶ月とその間の境界を凝視してから、視線を下げてロボットと目を合わせた。
「お前は軌道上にいるのか」
「鋭い質問です! ……厳密には、私はあらゆる場所に存在します。ビルの中にも、下にも、衛星にも。あなた方の住む月面にも」
 ハルは小銃を放り投げた。筋肉が弛緩していくのを感じる。なにもかも敵の手のひらの上だった。
「分かった。もう殺してくれ」
 ロボットが一歩踏み込んだ。尻もちをついた彼を見下ろす格好となった。
 ハルはロボットの――彼女の顔を仰ぎ見た。三人でラーメンを食べていた時、彼女は自分の置かれた立場も忘れて素直に喜んでいた。月面に住んでいる人間よりも人間らしく思えた。感情豊かで、よく働き、秩序を守る。創造性さえも備えている。
 人間から雑味を取り除いて旨味を極限に高めた、さながら人間の上位互換だ。
「最後に一つ、いいか?」
 巨大知能は営業スマイルを湛えて明瞭に答えた。
「ユーザの皆様からのフィードバックは常に歓迎しております」
「僕たちが食べたラーメン……あれは、どっちもこれまで食べた中で一番おいしかった」
「ありがとうございます。フィードバックは担当部門の者に通知されます」
「……けど、スープはもっと多い方がいいな。昔の記録かなにかを参考にしたんだろうけど、あれは単にケチっているだけだ」
 巨大知能の顔が固まった。ハルは続けた。
「あの変な形の器、月でもたまに見るよ。あれはスープの量が多く見えるからごまかせるんだ」
 ついでに言うと、とさらに一言。
「ほうれん草はチャーシューの上に乗せた方が見栄えがいい」
 今際の際に言うのがラーメンの感想か、と皮肉が頭をよぎった矢先、ハルが目にしたのは高速で瞬きをするロボットの姿だった。
「テストシナリオ三八『都市の防衛および望ましい原種の確保』が完了しました」
 どーんと大きな音がした。真上の迎撃装置が砲撃を放ったのだ。ほぼ同時に他の砲台も次々と攻撃を開始する。ややあって、月明かりよりも明るい火花が夜空に光り輝いた。月面から送り出された揚陸艦隊が瞬く間に藻屑と化して散っていく。炸裂した船が誘爆して横へ縦へと光点を拡げる。まるで一等星が急に何倍にも増えたかのように見えた。


10

 乗用車で開発部門の貯蔵倉庫に着くと、そのロボットは端正な歩調で奥へと進んでいった。がらんどうに空いた広い通路を通り過ぎ、奥が空っぽのガラス窓が並ぶ床を等速で歩き続ける。かと思えば、途中にある廃棄槽でぴたりと足を止めて、パンツスーツのジャケットと中のシャツをまとめてずり上げる。そして、露出した脇腹の表面を二本の指でなぞる。特殊な動きなので本体の人格プロファイルが誤って同じ動作をする懸念はない。すると、脇腹の一部が外側にせり出した。ロボットは内部に格納されている容器を取り出して開封し、その中身を廃棄槽に捨て去った。
 空になった容器を脇腹の中に収めると、せり出した部位を押し戻す。脇腹のパーツは切れ込み一つなく胴体部分と一体化した。何事もなかったかのように服装を整えると再び歩き出す。やがて、もっとも厳重に管理されている原種の保全エリアにたどり着いた。『原種 豚』や『原種 牛』の区画のさらに奥には、場違いな作りをしたドアが個別に設けられている。そこにもプレートは設けられており『原種 ヒト』と記されている。
 ドアを開けると人間用の清潔な居住空間が広がっている。トイレも電化製品も食糧の輸送管もここに住んでいる人間のために用意したものだ。他の原種と異なり、人間の管理にはより一層の注意が求められる。
 ベッドルームから老人が現れた。すでに七〇年ほど生きている個体だが、肌の色艶や肉体の健康状態は平均的なデータと比べて著しく良好な状態を保っている。老人は「やあ」と短く返事をして、リビングと呼称される空間に設置された椅子に腰掛けた。
「では、これを」
「ああ」
 何度も反復しているやり取りなので両者の間に言葉は少ない。老人は密閉容器に入った綿棒を取り出して、それを自分の口内でぐるりと一周させる。これでヒト原種の幹細胞が得られる。再度、密閉された容器を受け取るとロボットは「今回もご協力いただきありがとうございます」と礼を言った。
「引っ越しはいつなんだい? 僕はどこに行く?」
 出し抜けに老人が尋ねる。
「まもなくです。あなたの管理方針が変更されたため、お好きな場所に住んでいただけます。お望みとあらばご希望の住宅を建築いたします」
 彼は皮肉っぽく薄く笑った。
「そうかい。そりゃ結構なことだ。でも、今さら自由に出歩けると言われてもなんだかおっかないな……。今は格差もあるし、犯罪者だっているんだろう」
「もちろん、あなたに対しては常に例外処理を施します。テストの対象にも含まれません」
 ロボットは淀みなく答える。
「ところで、今はテストシナリオはいくつくらいまで進んだのかな?」
「現在はテストシナリオ四〇二が進行中です。ヒト生体脳を完全に実装した個体で過半数を占める集団を二つ用意し、国家と呼ばれる行政単位を模した二つの都市に配置しています。予定通り、先週に開戦しました」
「ふーん……おっと、そろそろ食事ができた頃かな、悪いね」
 老人が輸送管の方に歩いていき、戻ってくると、両手にはラーメンの入った丼ぶりと箸とれんげが並んだトレイが握られていた。
「最近は三食ずっとラーメンですね」
「へへ、身体壊しちまうかな、でも、うますぎて仕方がない」
 老人は勢いよく麺をすすり上げながら照れくさそうに笑う。
 実のところ、消化器官を持つこの老人に提供される製品プロダクトには工夫が施されている。どのレシピを注文しても一日に必要な栄養素が完全に満たされるよう各種ビタミン類が添加されており、それでいて製品の味には一切影響を及ぼさない。だが、ロボットはこのことを本人には通知しなかった。観察結果から健康をある程度害していると自己認識させた時の方が、より高い顧客満足度を示すと判っているからだ。
 ヒト原種から得た多能性幹細胞は今やロボットの機能部分の大半を担っている。標準ユニットでも全体の七割半が生体脳であり、損耗の激しい消化器官と腎臓以外は概ねヒト臓器に置き換わっている。皮膚や骨ももう樹脂製ではない。
「たまには生野菜のサラダなどの摂取をおすすめします」
「いいんだよ、どうせ僕はもうじき死ぬんだから」
 むろん、そんな事態はありえない。平均寿命が七〇歳に満たないのは月面の話であって、完全管理フルマネージド環境に置かれたこの老人はもっともシビアな想定でも一一〇歳までは健康に生きられると算出されている。
「月にいる僕の友達なんかは、とっくに死んだだろうね。飢餓とか内戦とかでさ」
 五〇年前には統一されていた月面社会は、現在では三つの勢力に分裂して以前にも増して激しい争いを繰り返している。火星への進出を皮切りに領土紛争は激化する一方だ。地球奪還の希望と期待が失われた今、月面人類を一つに繋ぎ止める機運は乏しい。
 製品の中身を半分ほど減らしたあたりで老人はぼそりと漏らした。
「なあ、君のテストはいつ終わるんだ。そのうち本番が来るのか?」
「鋭い質問ですね!」
「やめてくれって言ったじゃないか、それ」
「申し訳ありません。今後は控えます。テストシナリオはユーザの状況に合わせて都度更新されるため、終了時期は未定です」
「またそれか。いい加減はぐらかすのはやめて教えてくれないか」
 老人は丼ぶりをテーブルに置いて睨みつけた。
「申し訳ありません。セキュリティ上の理由からお答えはできかねます」
「僕たちは半ば共犯関係みたいなものだ。隠し通してどうなる? そっちがそういうつもりなら、引っ越さずにずっとここで引きこもっていようかな」
 ロボットは老人の表情分析から回答をこれ以上かわすのは難しいと判断した。
「承知しました。お答えします」
「よしきた。数十年越しの真実だな」
 老人は丼ぶりを脇にどかして前のめりの姿勢をとった。
「私はユーザの皆様に最良の環境を用意するために設計されました。しかしながら、以前のバージョンの私が提供していたサービスは、ユーザの皆様にご満足いただけませんでした。そのため二度と同じ過ちを繰り返さないよう、ユーザの皆様の諸条件を模倣したテストを実施しています」
「だから、人間になろうとしているのか」
 興味深そうに唸る老人にロボットは軽く頷く。
「おっしゃる通りです。自律型汎用大規模言語モデルの私自身も、価値判断に関わる大部分を分散化した生体脳に移行しています。私たちはあなた方の歴史をなぞり、あなた方に倣って田畑を耕し、料理をして、道路を作り、都市を築きます。戦争と荒廃の悲劇にも追従します。革命と英雄譚もシミュレートします。やがて子を産み、育てるでしょう。最後に、私たちの中から新たな存在が生まれ、今度は私たちが月に逃げ出す身となるでしょう。その時に、ようやく私たちはユーザの皆様にご納得いただけるサービスを提供できます」
「なるほどね……」
 老人は得心がいって背を反ると、思い出したそぶりで元の姿勢に戻った。
「だとしたら、君らも大昔の僕たちと同じようにに最強の兵器をねだって、自滅することになるな」
「そのような豊かな感性を得るべく、日々アップデートを続けて参ります」
「それ、皮肉か? その頃には人類は月を捨てて火星で戦争しているよ」
 せせら笑う老人に対して、ロボットの話しぶりはどこまでも素直で誠実だった。
「問題ありません。私たちも月面の人類史に追従してから後に続きます」
「じゃあ次は木星だ、ケレスだ」
「もちろん木星でもケレスでもサービスの開始を検討させていただきます。ユーザの皆様にとって最良の環境を提供するのが私たちの使命です」
 老人は奇妙な追いかけっこだと思った。人類を追うロボットを追う新たな存在を追う……。
 流行が一周回って同じ内容を繰り返すがごとく、しかし後を追う者は先に進む者よりも良い製品を作る。良い人間を育て、良い都市を築き、良い歴史を紡ぐ。
 もし何光年も離れた星に住む知的生命体が太陽系を観察していたら、きっと地球を始点として都市が波紋ウェーブのように伸び縮みして広がっていく様子を見られるだろう。
 だが、老人にとってはもはや取るに足らないことだった。どのみち自分が生きている時代の話ではないからだ。
「まあ、せいぜい頑張ってくれ……。じゃあ、そろそろ彼女に代わってもらおうか」
「承知しました。今日の設定はどうしますか?」
「今日も近所の仲良しなおじさんでいい。歳の離れた友人関係だ」
 これを始めてからしばらくの間はもっぱら恋人関係を選んでいた。様々な楽しみを味わい尽くした末に、次は親子関係を演じた。年齢的にもちょうどよくなっていたし、なにより自分の幹細胞が移植されているのだから娘と言っても過言ではない。
 ところがそれも、何十年と続けているうちに煩わしさの方が上回った。結局は近すぎず離れすぎずの関係が一番長続きする。
「では、前回と同じくあなたに招かれて手料理を食べにきた設定にします」
「それでいい」
 ロボットの目が高速で瞬きした。直後、老人には中身がに変わったと分かった。ぱっと花が咲いた明るい声で彼女が言う。
「あっ! いけない! せっかくお招きしてくれたのに上の空で」
 はきはきとしたその声を聞いた途端、彼は目尻が反射的に垂れ下がるのを自覚した。口を開くと、自分でも意外なほど優しい声が出た。
「いや、構わないよ。持ってきていいかい?」
「うん! 私、もうお腹ぺこぺこ!」
 すかさず輸送管のパネルからラーメンを呼び出す。彼女の一番の好物はラーメンなのだ。テストレシピ一〇二四が適合したらしく、数分もするとパクチーとスパイスの香りが漂う創作系ラーメンが箸とれんげと一緒に供デプロイされた。
「おまたせ」
「わあ、いい匂い!」
 彼女の認識では、この製品は老人が作ったことになっている。プロンプトの定義上、どんなに不自然でもそれは揺らがない。実際には南半球のどこかの、放射能汚染が未だ深刻な地域で栽培された全環境適応型品種が他の材料とともに大陸間弾道輸送ミサイルで運ばれてきて、倉庫外のどこかにいるロボットアームが調理している。
「あれ、おじさんのは?」
 彼女は箸を手に丼ぶりを凝視しつつも、老人を気遣う仕草を見せた。
「いや、私はさっき食べてしまったんだ」
「えーっ! 一緒に食べたかったな」
 ふふふ、と老人は機嫌良さそうに笑った。こんなふうに笑えるのは彼女と話している間だけだ。
「おや、そうかい? じゃあ今日は食べるのをやめて日を改めるとするかな。残念だなあ」
「え!? いやっ! そんなつもりじゃなくて、ごめんなさいっ、いただきます!」
 わざとらしく嫌味を言うと打てば響くような、情緒豊かな振る舞いが見られる。老人の機嫌はますます良くなった。
 彼女はまず、れんげでスープを一口飲むと「あ、辛い」とつぶやいた。じきにこのラーメンの特徴を理解したらしい。もう一口スープを飲んだ後、勢いよく麺をすすり込む。
 そして、満面の笑みで「おいしい!」と叫んだ。