今年の夏は寒かった。いつもだいたい雨が降っていた気がする。窓の向こうで蝉の音が高らかに盛夏を主張する矢先、前触れのない雨脚が夏景色を根こそぎ洗い流してしまったかのようだ。忙しない出勤の間際、身体にまとわりつく汗と湿り気だけが日常に感じる夏の姿だった。
夏を終わらせたくなると僕は海に行く。誰も誘わず、誰にも言わずしめやかに行く。これは夏を個人の認識の上で看取る行為であり、決して華やかなイベントではない。行く日は八月の末日かその前日が多い。お盆を過ぎると夏が処される旧来の区分は廃れて久しく、昨今の夏は依然猛威を振るっている。気持ちの整理をつけつつ、ラストサマーを飾るのに最適である。
ところが、今年の夏は看取るまでもなく一足先に果ててしまった。八月の末日とその前日、その前々日も含めて空はずっと翳っていた。気温は三十度にも届かない。海が開いている期間で唯一、晴れ予報が出ているのは九月二日のみであった。どう贔屓目に見ても、九月は明らかに秋である。かといって毎年の習慣を諦めるわけにもいかない。こうして、夏を終わらせるための儀式は、一転して夏を呼び戻す営為へと変わった。
埼玉県民が海に行くには東京をまたがなければならない。平日の朝、車内は仕事に向かう人々の姿で埋め尽くされていた。彼らにとって今日は普段と代わり映えしない、ちょっと晴れている秋の日に過ぎない。この中で僕だけが夏を延長しようと画策して海の装いを固めている。
それでも、藤沢駅で降りて江ノ電に乗り換える頃にはぼちぼち行楽の雰囲気が漂う。低速で入れ替わるのどかな街並みが、日常と切り離された独特の風情を醸し出す。ここに住んでいる人々が埼玉を訪れてもおそらくそうは思わないだろう。海辺の街には特別な文脈が備わっているからだ。だから地価が高い。目的の駅を降りると、さっそく潮風が頬を撫でる。
ここから片瀬海水浴場までは徒歩十分ほどしかかからない。薄いサンダルの底に砂粒のディティールを捉えるごとに、海の気配が近づく。やがて足が砂浜を踏みしめた時、そこには見慣れた湘南の海が広がっている。例年と違うのは空に浮かぶ雲がはっきりと秋の形をしているところだ。だが、今回重要なのはあくまで僕が夏の延長を祈念することである。

人の姿を認めると、海の家からよく日焼けした筋肉質のスタッフがやってきてサマーベッドとパラソルをすすめてくれる。毎年同じスタッフだが、彼は僕が毎回律儀に両方借りているのを覚えていないだろう。海辺に近寄る人すべてにとりあえず声をかけるのが彼の仕事だ。
計四千円で安住の地を確保すると、入念に日焼け止めクリームを塗りたくる。近所のドラッグストアで手に入る最高性能のものだ。日焼けを甘く見る者は太陽の下で脱衣してはいけない。この儀式を始めた当初の僕がまさにそうだった。ベッドの上で身じろぎをするのにも激痛に苛まれる経験を一度でも味わえば、十分に発達した日焼けは火傷と区別がつかないことを学ぶ。
以降はただひたすら太陽に身を晒す時間が続く。一人で海へ行って結局なにをしているのか疑問に思う人もいるかもしれないが、実際のところ別になにもしていない。強いて言うならなにもしていないをしている。もちろんたまに泳いだり本を読んだりもするが、大半の時間においてはただ横になっている。寝ているというのも少し違う。眠るには暑すぎる。
ゆえにまさしく祈念していることになる。普段は夏の終わりを認めるために、今回は夏の一時的な延長を呼び起こすために、うんざりするほど太陽光を浴びているのだ。パラソルを畳むと、雲のすき間から顔を出した太陽が鋭い熱気を届けてくれる。皮膚が焦げる感覚とささやかな風が行き交い、殊更に苦しめもしなければ媚びもしない自然に特有の勾配に包まれる。そうしている間に、だんだん日が傾いていく。
ふと内省に飽きると、おもむろに海に繰り出して泳ぐ。実は海水温は八月より九月上旬の方が高いらしく、現に生ぬるかった。何度かクロールして肩のあたりの深さまで進むと、近くで魚が跳ねているのが見えた。同じ様子を見た他の人たちが漁獲を目論んで躍起になっている。ひとしきり濡れそぼると砂浜に戻って身体を乾かす。そのうち、陸にいても波のリズムを感じられるようになる。雲の形はさほど気にならなくなり、僕の中では確かに夏が延長された実感を得る。
要するにこれは俗世から離れるとかスローライフとかそういう類の話だろうか? いいや、たぶん違う。いよいよ夕日が差すと僕はいそいそと立ち上がって身支度を始める。着替えを済ませて出立すると、大橋を渡って江ノ島に向かう。目当ては特産品の生しらす丼だ。ぺろりと平らげてから来た道を戻り、サイフォンで淹れたという触れ込みのコーヒーをテイクアウトして、塩ソフトクリームまで食べる。ついでになんかいい感じの夕焼けの写真も撮る。見事なうろこ雲だ。

きっと夏を惜しんでいるのだと思う。夏の存在感は年を追うごとに増しているのに、少年から中年に老いていくにつれてそれが生活上の障害にしか感じられなくなってしまう。体調管理も食材の管理にも、洗濯、異常気象、デオドラント、その他様々な物事に気を遣わなければならない。日本の高温多湿の夏など、本当はない方が楽に違いない。にもかかわらず、いつも夏を見送るのが淋しくて仕方がない。
今年の夏は寒かった。例年と比べて過ごしやすかった。