点と接線

「対戦」などしていない

かのイーロン・マスクが「Xは対戦型SNSだ」と主張して以来、この発言は様々な形で受け取られてきた。和やかにお喋りしたり好きなものを共有する場ではなく、激しく意見を戦わせる場に変わったのだと悟って去る者、逆に〝お墨付き〟が出たと喜び勇んでレスバに拍車をかける者、単にSNS中毒で賛成反対以前に離れるすべがない者など、多くの立場がある。今回は主に二番目の立場を糾弾していきたい。

そもそも「対戦」とはいかなる代物だろうか? 原文では「PvP」と表現しているので、正確にはオンラインゲーム的な文脈が強いと思われる。CPUが相手ではなく人間のプレイヤー同士で戦うジャンルのことだ。大抵の場合はラウンド制など固有のルールがあり、勝負の過程は検証可能で結果はゲームシステムが決定する。

一昔前のゲームではプレイヤーの設定や意思にかかわらず一方的にPvPを仕掛けられる形式もあったが、システム的にはやや不名誉な扱いを受ける場合が多かったと記憶している。プレイヤー名がどんどん赤く染まっていくとか、やりすぎると地下牢ダンジョンに投獄されて地上に出るまで通常のプレイが行えないとか、要するに一見殺伐とした対戦型ゲームであっても、そこには無作法を罰するためのルールとシステムが存在しているのである。

翻って、Xを見てみよう。Xの「対戦」には、ルールらしいルールもなければ、システムが正常に機能しているとも言いがたい。望まない対戦を強いられることを事前に防ぐ設定もなければ、それを執拗に仕掛けるプレイヤーへの処罰もない。そしてなにより、勝負の過程を検証できないし結果は雰囲気で決まる。オンラインゲームの文脈で表すにはあまりにも設計がお粗末すぎる。

さらに深掘りを進めると、PvPを名乗るなら当然プレイヤーとして戦っていないといけない。戦うというのはすなわちどちらがどう仕掛けたにせよ、切ったら切り返される、殴ったら殴り返される、体力が尽きたら敗北する。そういう話だ。これを言論空間で再現するなら、言ったら言い返される、言い返されたら言う。これが文化的に成立している必要がある。

ところが、Xにおいてそのような建設的な議論が成り立つ場面は珍しい。なにか気に入らない投稿を見かけたら罵倒や冷笑を浴びせかけ、話し合いには応じない。自分の意見を代弁してくれそうな投稿を大量に拡散するが、自分自身は主体的に自説を語らない。これはどう見ても「対戦」ではない。戦いに参加していない。野次馬になっているだけだ。

極めつけは、Xのアルゴリズムがそれを加速させている。対立を誘いそうな言説の中でも、とりわけ単純で粗雑な投稿がピックアップされる。なぜならそうした投稿の方が瞬時に反応を得られやすく、システム上有利なスコアリングを獲得しやすいためだ。こうした発言をよってたかって叩いて回っているのを「対戦」だと思い込んでいる。そうしているうちに、自分と相反する意見の持ち主はおしなべて愚鈍で蒙昧に違いないという誤った認識が強化される。

一度この状態に入り込むと抜け出すのは難しい。結果、強化された認識を正当化すべく、日々取るに足らない放言にリアクションしてスコアを与え続け、それがアルゴリズムに反映されてますます偏見に基づいたタイムラインが構築されていく。ところで、この手のしょうもない投稿を繰り返すアカウントに、ほぼ自動で動くBOTの類が少なくないのはよく知られた話だ。

最近ではむしろ自分たちが「対戦型SNS」にいることを名誉と捉え、あたかも酸いも甘いも噛み分けたリアリストのように振る舞う向きもあるらしい。彼らからするとFediverseやBlueskyや、その他のSNSに行った人々は甘ちゃん、いい子ちゃんであり、自分たちこそが鷹揚で実践的な人物なのだと自負している。だが、実際のリアルはこんなものである。傍から見ればただアルゴリズムに脳を焼かれた中毒者にほかならない。

彼らは「対戦」などしていない。これと見込んだ相手を定めて対等な討論を行う努力を怠り、手痛い反論に苦しむリスクも負わず、タイムラインが供給する低レベルな相手を小突いて満足している。その相手も大概は仮初の存在であって、中身が本当に人間のプレイヤーかどうかでさえ定かではない。プレイの好みは人それぞれだが、少なくともそれは「接待」と言うのではないだろうか。