点と接線。

入眠に一時間くらいかかる

僕の起床時間は正確だ。毎日午前六時に起きる。通勤日でもリモートワークの日でも休日でも関係ない。起床時間がずれると就寝時間もずれ、やがて生活リズムも崩れていくことをよく理解しているからだ。命を燃やしてハードワークに勤しんでいた若かりし頃、昼夜を問わない仕事と勤怠の境界があやふやな業界の性質も相まって、僕の睡眠の質は最 of the 悪に近かった。

当時は運動もろくにしていなかったので、肉体的には必ずしも疲労していないのに神経ばかりが昂ぶったまま寝床につく日々が常態化していた。当然、気持ち的には寝たくて仕方がないはずなのに頭の中が騒がしくて眠りに落ちる事ができない。だが、眠らなければ仕事に支障をきたす。そこで頼っていたのがかの有名なマイスリーである。言わずと知れた睡眠導入剤だ。

小指の先にも満たない大きさのこいつを飲むと、たちどころに思考が曖昧化されて眠気がやってくる。たとえバックライトをギラギラに照りつかせたスマホが目の前にあっても、次第に画面上の文字がブヨブヨと泳ぎはじめて読んでいられなくなる。どんなにドパついた精神も一瞬で落ち着かせる、まさに魔法のごとき妙薬であった。

ところがこの妙薬、尋常ならざる依存性が備わっている。一錠で即座に眠れたのも束の間、慣れてくると人格を曖昧にされた前後不覚の状態で俗世に取り残される。スマホの画面も文字が宙に浮いたまま読めるようになる。別になにも嬉しくない。しかし、あまりにも眠れないと手持ち無沙汰なのでつい見てしまう。酩酊しているはずなのに視神経が冴えてくる。

じきに二錠目に手を出さざるをえなくなる。飲んでも効き目が得られないのは損失なので、服薬量を増やして効果を取り戻そうと考える。絵に描いたような悪循環だ。同じ理屈で三錠目を飲み、ついには四錠目に手を出したくなるくらいにまで症状が進行した時、ようやく僕は致命的な間違いを犯していることに気づいた。

なにしろそれで無理やり寝たところで、起床後のパフォーマンスは劣化する一方だったからだ。寝たと言っても意識が途切れただけで、体力が回復した実感はない。ただ眠って起きたという形式が作られているに過ぎない。睡眠の意義は疲労を癒すためであって、不快な神経の昂りから逃れるために意識を飛ばすことではない。

結局、この問題は退職によって強制的に解決した。無職となりパフォーマンスを発揮する必要がなくなったので、眠れなかったら寝なければいいし、眠くなったら寝ればいい。断薬と幾度の昼夜逆転を経て、地球の公転周期を待つ気長さとともになんとなく平常に戻っていった。以来、睡眠導入剤の類には手を出さないと決めている。

だが、この頃どうも入眠時間の遅さに悩まされている。冒頭で述べた通り、今の生活リズムは完璧だ。運動習慣もある。ほぼ毎日定時で帰っている。にもかかわらず、入眠に一時間くらいかかる。悪い時だと二時間近く正気で寝床にへばりついている時もある。これは明らかになにかがおかしい。

生活リズムは乱れていない。起床時刻を固定しているので乱れようがない。ごく単純に、入眠にかかるぶん真正の睡眠時間が目減りしている。要するに眠い。これが辛い。下手に昼寝をすると余計に寝つきが悪くなるので堪えているが、それでも十五分くらいは午睡を挟まなければやっていられない。これほど堅実な暮らしをしていてこの仕打ちはあんまりではないか?

眠れないと余計なことばかり考える。昔を思い出すのも典型的な一例だ。そのうち過去の挽回シミュレーションなどが脳内で開幕されると、いよいよ変に頭が回ってきてますます眠れなくなる。色々考えたがやはり初手にスタートアップ企業を選んだのは失敗だったな、いや、元はと言えば学部選びの時点で、いや、そもそも受験勉強をしっかりやっていれば……。

調べてみると、三十路を過ぎたあたりから入眠を司るメラトニンの分泌量がメリメリと減っていくという。これは純粋に加齢に伴う普遍的な現象でトレーニングでは改善できない。減少量は人によってまちまちだそうだが、いずれにしても中年に突入した人間は脳みそのどこからかちょろちょろと垂れ細るメラトニンをかき集めて眠気を振り絞らないといけないらしい。

そんな悲愴的な宿命を受け入れるくらいならいっそ、と睡眠導入剤の再導入が頭をもたげるが、すばやく首を振って考えを打ち払う。あんな苦しみは二度と味わいたくない。しかし、この状況を改善できる現実的かつ妥当な科学的アプローチがあるはずだ。結論から言うと、自分の脳みそがうまく出せないなら外からぶち込めばいいという話で、メラトニンそのもののサプリメントが存在していた。

さっそくiHerbから購入する。いつも飲んでいるマルチビタミンサプリと同じメーカーで揃えた。購入にあたって効果や依存性、副作用その他を入念に調べたが、幸いにも睡眠導入剤につきものの依存性はないとのことで、ひとまず試すには悪くなさそうである。一方、効き目はかなり限定的で入眠の改善には役立っても、中途覚醒や重篤な不眠症には効果が薄いようだ。

おそるおそる服用して寝床に潜り込む。メラトニンは受光していると効果が遮られるため、飲んだらスマホの画面を見てはいけない。十数分後、久しく感じられなかった感覚が脳裏を覆いはじめる。とりとめのない支離滅裂なシチュエーションが浮かんでは消え、音楽なんかも聞こえてくる。これはまさしく、眠る直前の妄想ではないか? そして気づいたら……朝になっていた。三十分も経たずに眠っていたのだ。

睡眠導入剤にありがちな寝起きのだるさも感じられない。クリアな目覚めだ。本来足りなかったメラトニンを直接摂っただけで、実態としてはビタミン不足をマルチビタミンサプリで補う形に近い。このやり方なら過去の過ちを繰り返さずに睡眠の質を改善できそうに思える。ありがとうメラトニン、すごいぞメラトニン。とはいえ、本当は脳みそから勝手に出るものをわざわざ金を出して買うのはなんか損した気分だな。