2021/03/06

金持ちの方が麦を食っている

もうじき三十路に達するともなれば、やはり肉体の健康が気がかりになってくる。思えば、数年前にダイエットを始めて十七キロもの減量に成功したのも、肉体に関する同様の懸念からだった。

カロリーを基礎代謝近くまで制限すれば当然、体重は減る。だが、減るのは脂肪だけに留まらない。よっていたずらに筋肉を減らさぬよう筋トレにも励むべし――各種の能書きが異口同音に言っていたのは概ねこんな具合の内容である。

しからば、とばかりにさっそく腕立て伏せをやってみると、おかしなことにただの一回たりとも満足にできない。能書きは、初心者は膝をつくとよい、と優しく付け加えた。ところが、膝をついてもやはり十全にはこなせない。二回もやれば腕が震えてくる。肉体の衰えが実感として襲いかかってきたのはこの時だ。

懸垂ができない程度ならまだ話になるが、膝をついた腕立て伏せさえできない五体満足の人間など冗談にもならない。隣の席でさっきまで笑い転げていた友人がにわかに真顔になってグラスをテーブルに置き、慎重なひと呼吸の末に「お前、それはやばいよ」と忠告するくらいには、心配に値する状況だった。結局、腕立て伏せは壁に向かう形から始めた。

ひとえに僕がダイエットに成功したのは、頭脳と同じくらい肉体の状態も精神に影響を及ぼすと認識していたためでもある。ちょっとした化学物質で人間の精神など簡単に変貌してしまうのだから、食生活の違いや運動習慣で変化が起こってもおかしくはない。逆に、それらを怠り続けた肉体は既に精神に影響を与えてしまっているとも言える。

変化する前提で検討するのであれば、腕立て伏せの一つも満足にできない肉体と、できる肉体のどちらを僕の精神を象る「デフォルト」として選ぶべきか? 生存に有利なのはどちらなのか。考えるまでもない話だった。

麦の話をしよう。試行錯誤の結果、ブロッコリーと鶏肉とマルチビタミンの三本柱を中心に食生活はだいぶ整ってきたように思う。しかしまだ唯一の懸念が残されていた。食物繊維だ。こいつだけは自然な形ではなかなか摂れない。

食物繊維といえば野菜を連想しがちだが、実はどの野菜にもそれほど食物繊維は含まれていない。一日あたり二十グラムという政府の掲げる推奨値を野菜だけで賄おうと思ったら、かなり無理のある食生活になってしまう。イージーファイバーなどを別途追加すれば簡便に解決できるが、これ以上余計にサプリメントの類を増やしたくはない。

そこで辿り着いたのが大麦である。例えば、もち麦には百グラムあたり約十三グラムもの食物繊維が含まれている。もち麦を白米の三割ほど混ぜて炊けば、計三百グラム食べるだけで自動的に半日分以上の食物繊維を得ることができるのだ。米食さえすれば確実に摂取できるというのはいかにも心強い。僕もさっそく今年から食生活に取り入れはじめたが、おかげさまで快便二十面相である。味わいも白米だけより美味しいと言っても過言ではない。

「貧乏人は麦を食え」などのフレーズに代表されるように、かつて大麦や雑穀、玄米といった代物はどちらかといえば恵まれない人々の食べ物だった。何百年も前の江戸の庶民でさえ、脚気にかかるほど白米ばかり選り好みして食べまくっていたという。

今や状況はうってかわって、むしろ健康意識に長けた金持ち、高学歴、エリート階級の方こそ、積極的に麦だの稗だの粟だのを食べている。それどころか既存の商品では飽き足らず、わざわざ「スーパー大麦」なる新種の機能性大麦まで拵えてしまった。百グラムあたりに含まれる食物繊維はもち麦の二倍にも達する。値段は八百グラムで二千円以上。どんなブランド白米よりも高い。エリート連中はこれだけの金を払ってでも麦を食べているのだ。

反面、貧困、低学歴、底辺に属する人々はただでさえ少ない金をファストフード、ジャンクフード、酒、タバコ、その他チープな嗜好品に費やし、ぶくぶくと肥え太り、自ら判断力を毀損し、それらが持つ中毒性にまんまと取り憑かれてしまっている。そんな傾向が有意に表れている。

このように価値観が捻転した今日において、肥え太った悪辣な金持ちと朴訥な貧者といった、旧来の図式はもはや成立しない。今のエリートは自己研鑽に余念がなく隅々にまで気を遣うが、底辺に属する人々はインスタントな欲望にのみ満たされ他の重要な要素が欠如している。

つまり、現代の貧困とは物質の欠如ではなく認識の欠如なのだ。麦一つとっても、スーパー大麦こそ高価だが普通のもち麦くらいならどこにでも売っているし、貧乏でも決して買えないことはない。ところが、それでも貧者が手にするのは麦ではない。さらにひどいと、白米ですらない。栄養にならず腹もあまり膨れないジャンクフードを手に取るのだ。エリートがスマートフォンで便利に学習の機会を増大させている時、貧者はソーシャルゲームの無料ガチャに一喜一憂している。

これは格差を正当化する話ではない。能力や教育が遺伝と環境によってもたらされる以上、彼らの現状を自己責任と決めつけることはできない。しかし、自由主義と資本主義が大手を振って大路を闊歩する現代社会では、彼らの堕落を止める術はない。マクドナルドも、JTも、サイゲームスも、あくまで個々人の裁量次第なのだと嘯く。一方、エリート連中はひとりでに、際限なく進歩する。ゆえに格差は淡々と広がり続ける。どうしようもなく差が開いていく。本質はどうあれ、この現象は自己責任論をより強固にしてしまうだろう。

僕も出自に劣った人間だ。親族に大卒は一人もおらず、ほぼ全員が喫煙者。おまけに母子家庭でもあった。彼ら、彼女ら自身はみんな立派な人たちだが、おそらくこういう家庭は日本中、世界中にたくさんあって、当然ながらエリート連中がするような教育を子息に施せてはいない。

だが、僕個人はまだエリートに敗けたとは思っていない。なにで勝敗が決まるのかも解っていないが、自覚に至るまではとりあえず足掻いてみる。

だから今日も麦飯を食べる。ブロッコリーを頬張る。筋トレし、勉学に励む。もし奴らが生まれつきの優位にうぬぼれ、一瞬でも隙を見せた時には、手に持った鶏肉の骨をその首筋に突き立て、麦穂で往復ビンタを食らわせてやる。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Twitter | RSS | 小説