2021/06/04

黒マスクと偏見と自由競争

わずか二年ほど前まで「黒マスクはセンスが悪い」扱いだったことを覚えているだろうか。

疑うのなら期間を指定して適当なワードでググってみるといい。着けているマスクが単に黒いというだけで、あたかも着用者の人格まで決めつけられかねない勢いだ。

時が経ち現在。黒マスクだからどうこうと抜かす輩はほとんどいなくなった。それどころか、もっと奇抜な色合いのマスクを着けている者も今や珍しくない。あれほどこぞって黒マスクを揶揄していた彼ら彼女らはいつの間にか溶けて消えてしまったらしい。恥ずかしながら、僕自身も「人の勝手」と前置きしつつも、変わっているなあと思ってはいた。

理論的な裏付けのない感覚などえてしてそんなものだ。マスクは大抵白いものだから、違う色をあえて選ぶ者はどこかおかしい。母数も少ないので気兼ねなく叩きやすい。そこに批判に足る根拠などない。ここからの話題の推移はとても想像しやすい。この一件は他の社会的な物事とも接合できるからだ。

世の中にはこうした隠れ黒マスク事案とも言うべき偏見が、残念ながら多数存在している。たとえ聡明な人間であってもそれらのすべてに気づいているとは限らない。むしろいざ指摘されでもしたら、なまじ賢いばかりにもっともらしい小理屈を引っさげてきて、いきおい正当化を図ろうとするかもしれない。

であるから、われわれもよく頭を働かせてそうした偏見の芽を早期のうちに摘む努力をしていかなければならない。……などというのがよくある結論だが、僕が今回話したいのはその逆だ。 もし偏見が至るところに蔓延り、未だに駆逐されないとしたらそれはなぜなのか。根拠らしい根拠はないとさっき言ったが、メリットがないとは言っていない。偏見によって利益を得る者は確実にいる。

実を言うとそれはわれわれ自身に他ならない。厳密には、われわれの中の自由競争を拒む意思、一種の感覚器官がそうさせている。 ここで一旦、話を判りやすくするために黒マスクの件に戻る。コロナ禍以前のマスクといえば、未就学児でもなければ白が常識だった。それ以外はほぼ議論の余地なくナンセンスとされていた。なぜか。白以外の色も選択肢に入れてしまうと、たちまち競争が発生してしまうからである。

競争は一度起こると容易には止められない。白以外のマスクが当たり前になれば、次にやってくるのは色の使い分けであり、あくる日には色の組み合わせが検討される。もちろん柄物も大量に出回る。極限まで競争が進んだ時、白のマスクしか持っていない者への眼差しは、さしずめ白の服しか持っていない者へのそれと概ね等しくなるだろう。価値観の逆転。

われわれの脳髄にまとわりつく偏見は言語化がすこぶる不得手で論理性もない。代わりに、刃物のごとき鋭さを持つ。だからいつも人を傷つける。だが他方で、特に根拠なく黒マスクをナンセンスと決めつけたわれわれの偏見は、確かに競争の予兆を感じとっていたのだ。マスクはあくまで病原菌を予防する道具だから実用的であればいい。いらぬ競争など持ち込まれては迷惑極まりない。余計な手間が発生するではないか……。 このようにして、われわれの偏見は黒マスクの拡大を押し留めた。偏見が競争を予防する感覚器官として働いた証拠だ。

しかし、コロナ禍により拡大したマスク需要は前提を破壊した。マスクを着けぬ不届きさと比べれば、色などもはやどうでもいい。むしろ服のごとく必然化されたことで、マスクは実用品からファッションへと格上げされた。競争は既に始まっている。目端の利く者はもう白単色のマスクなど着けていない。

幸いにして、ワクチンの開発はわりあい迅速に行われた。競争の激化が進む前に着用の機会そのものがまもなく低減していくだろう。僕としても感染予防のためにマスクを着用することはやぶさかではないものの、やはり窮屈に感じるので可能な限り早くワクチンを打ってしまいたい。

さて、これは黒マスクの話だが、僕はさきほどこの件は他の社会的な物事とも接合できると述べた。むろん、偏見が競争を予防する器官として働いているとの見立ても同様に成立する。これはなにも世紀の新発見ではない。われわれは教育で偏見がいかに悪いか教え込まれているので、その効能について考える機会が稀になっただけに過ぎない。事実、偏見は悪い。さしたる理由もなく人を劣後に置こうというのだから、言うまでもなく悪い。悪いのだけれども、件の効能に関してはやはり認めざるをえない。

このことは諸君らもよく念頭に入れておいた方がよいと思う。われわれは偏見が悪いということと同じくらい、自由競争をすばらしいものとして教えられている。われわれの社会は資本主義の上に成り立っているため、この原則を拒否して生きるのはとても難しい。競争がテレビゲームのような気軽さで乗り降り自由なら誰も不満を抱えたりはしないが、世の中を支える常識から降りて暮らすのは不可能に近い。

結果、たとえ競争が嫌で仕方がないとしてもわれわれは渋々参加せざるをえない。そして、参加した以上は当然に自己責任が求められる。競争で有利な側は、不利な一方の文句を無慈悲な正論でねじ伏せる。もしマスクのファッションバトルが進行していたら、いくら不本意でも自由意志の体で色を選ばざるをえなくなるのと同じく、われわれは一度発生した競争から逃れられない。逃れられる者は他に補填しうる資本を持つ者だけだ。

してみると、いよいよわれわれ凡夫にとって偏見の効能が魅力的に思えてくる。一人ひとりは些末な凡夫であっても、偏見の力を十分に結集させれば競争を予防できるのである。偏見は規範意識としても機能する。なぜ世の中に取るに足らないルールがあちこちに散在しているのか。髪は黒、長さは肩まで、ソックスは白などと学校で決められているのも、ひとえに競争を防ぐためでしかない。偏見器官を上手く駆動させるために「不良になる」などというどこにでもくっつく小理屈がありさえすればいい。

以前の日本は自由に乏しい社会だと言われていた。理不尽で非合理なルールは学校のみならず会社にも近所の井戸端会議にも堂々と居座っていた。しかし偏見の効能を認める視点に立って考えると、これらは決して真に無意味だったのではない。偏見をドライヴさせる条件を設け、競争を予防し、大多数の凡夫を自由競争から保護する仕組みとして適切に機能していたのだ。

つまり、凡夫がより良く生きるには、どうしても他人に嵌める枷が必要とされる。 さもなければ有無を言わさず自由競争に投じられ、遠からぬうちに敗北を喫するだけなのだから。この事実に自覚的になるとあまりにもみじめな気分になるので、とても辛い。辛いので、われわれ凡夫は気づかないふりをする。卑屈さを気取られたくないがために甘んじて敗北を受け入れる。フェアな勝負をしているふうに装う。

自由主義社会とはこのようにして、大多数の凡夫が持ち前の器官を押し殺し、消極的な自己犠牲を払うことによって成立している。われわれの社会の中にあってはわれわれ凡夫がそうであるし、地球全体にあってはわれわれのために誰かが器官を押し殺している。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Fediverse | Bluesky | Keyoxide | RSS | 小説