誰しも我が身はかわいい。人間、自分だけが真実の努力を培っていると言い張り、他者のそれについては過小評価を怠らない。インターネット。日夜、最弱決定トーナメントが開催され、鬨の声が負の方向へと拡散していく。
「親ガチャ」という言葉は実に鮮烈で象徴的だと思う。「格差」などという手垢のついた言葉に比べてこの新語のえぐるような響きはどうだ。単に親の出来で子供の生涯が左右されるといった、今さらあえて論ずるまでもない確定済みの事象のみならず、今日における価値基準の収斂性までもが巧みに示唆されている。
地縁社会、縁故、因習などの価値観が過去の遺物として捨て去られ、最先端のボーダーレスなグローバル化に邁進した結果、われわれはむしろ唯一無二の資本主義的価値基準に従属することを余儀なくされた。社会が親子を自由にさせてまったく干渉しないなら、親の影響で子供の人生が決まるのは当たり前の話だ。
「唯一無二の資本主義価値基準」は一見公平に見える。能力さえあれば誰もを正当に評価せんとする仮初の題目は、かつて地縁社会に不満を抱えていた層を大いに駆り立てた。そう、能力さえあれば人種や民族、出身や門地は関係ない。関係ないのだが、当然、そこには資本ある者が能力を効率的に開発する一方、ない者はただ劣後に甘んじるという過酷な現実が待ち構えていた。これらは何も学歴や技術に限った話ではなく、容姿や性格、振る舞いなどの一切が含まれる。
物心のつかぬ子供は「資本ある者」には決してなりえない。となると、現代において能力開発に関わる資本を握る者は、やはり当人の親以外にありえない。能力さえあれば人種や門地は関係ないとはいえ、資本ある親は大抵いずれにも有利な形質を持ちえている。殊にアメリカ合衆国において人種別の資産保有額や学歴にどれほどの落差があるかは、あえて詳細なグラフを引っ張ってくるまでもないだろう。
そうすると、今の時代はかえって厳しいものがある。われわれが忌み嫌った地縁社会は、確かに身びいきと非効率の極みであった。しかし他方、親以外の大人が子供に影響を与える機会を一応はもたらしてきた。どんなに貧しい家庭の生まれでも因習に従うそぶりを見せれば、地縁社会に包摂され最低限の教育と職場を得られる余地があったのだ。逆に、外からやってきた人間は徹底的に冷遇された。いわば地縁社会は人的資源の税関と言える。競争力に乏しい地産の人材を因習の関税障壁によって保護していたのである。
ところが今時分は開かれた自由競争の時代。地縁社会の有力者の子息が束の間の放蕩も許されず能力開発に勤しまなければ没落を余儀なくされる一方で、資本なき貧しい家庭の子供は単に能力開発を怠った自堕落な個体と見なされる。かつて彼らを包摂ないしは優遇してきた地縁社会は既に解体され、因習からの解放を望んだ親たちは快哉を叫んだ。十分な文化資本を持つ親からすれば地縁の価値観に基づく教育など悪影響でしかないからだ。それらはローカルに閉ざされているがゆえに商品価値が低く競争力に欠け、交換性を持たない。
そんな教育であっても受けるだけ受ければ、辛うじて地元で一人前になりえた者が自由競争の美名の下に放逐され、理不尽な因習から解き放たれた資本力の申し子たちが際限なく能力を開発し続ける――これぞ、われわれ西側諸国が戦後以来せっせと築いてきた自由社会の効能であり、代償なのだ。かくして地縁を失った地方はただ発達の遅れた虚無の空間として政府から事実上放棄され、残されたわずかばかりの人的資源で崩壊を先延ばししている。
要するに、自由でボーダーレスな社会は誰にも干渉されない代わりに、誰からも恩恵を与えられない。 親が子供に与える資本をすべて決定できる代わりに、多寡や品質も親の資本力にすべて依存する。そして、開発されうる能力は件の資本主義的価値基準に基づいて常に査定を受ける。とりわけ周囲の子供たちの商品価値が高いと、後に続かなければ買い手がつかなくなる恐れも出てくる。日本の大学進学率は5割程度だが、東京都内に限れば7割強もある。
われわれ自身、われわれの親世代自身がこのように自由で開かれた社会を進んで作ってきたのに、不満を漏らす子供へ向けて一体どんな叱咤ができるというのだろうか。反対に、種々の格差を平準化すべく大人から干渉されまくりの地縁社会に戻そうと言われたところで、子供たちとて御免こうむるとなるのが正直な話だろう。親のせいで被った不利益を解消したいとしても、赤の他人にいちいち指図されたくはない。
だが「親ガチャ」を軽減する方法は結局これしかない。前述の通り親の影響力を相対的に弱め、他の大人たちの影響力を強めることだ。政府、社会、学校、親類縁者、近所のおっさんおばさんがスクラムを組んで親子の間に割って入り、それぞれの道理を説く。 必要であれば親から引き剥がす措置も厭わない。たとえ親に十分な資本力があっても実行し、強制力さえ持たせる。
結果、どうなるか。餓死寸前の被虐待児が満足のいく食事にありつける。振り込め詐欺の受け子が板金工に職を変える。反面、未来の東大生が高卒で地元の役所に勤めさせられ、スタンフォード大学に合格した天才少女が進学を断念し18歳で専業主婦になる。平準化が常に上方修正のみで完結すると思うのは考えが甘い。子供を虐待する毒親に鉄拳制裁を加え、振り込め詐欺の受け子を雇い入れる近所のおっさんは、同時に未来の東大生に役所勤めを強要し、女性の進学に大した価値を見出さない。さもなければ人的資源が外へ流出していき、故郷の衰退に繋がるからだ。
このように、平準化は無分別にしか成立しない。子供たちに「親ガチャ」と言われたくなければ、手持ちの資本と実際の人生が無関係になるような社会を目指さなければならない。生き方や職業に資本主義的価値基準を設けたくなければ、能力に拘らず人材をまばらに配置しなければならない。「親ガチャ」が「親ガチャ」たるゆえんは、運要素が限定されすぎているところにある。能力開発に勤しめば勤しむほど正しく評価される世の中にあっては、どうしても生まれつきの遺伝や環境の比重が大きくなってしまう。
すべての受精卵に等しく遺伝子改良を施すだとか、すべての子供を集中管理して一律の教育を与えるだとかの実現可能性の低い対策を除けば、せいぜいとりうる施策はこうして運要素を増やしてやることくらいだ。「親ガチャ」でSSRを引いた者が「地縁ガチャ」で大外れを引く。「親ガチャ」で大外れを引いた者が「近所のおっさんガチャ」でSSRを引く。全部SSRの者や全部大外れの者も残念ながら少数出てくるにせよ、マクロ視点ではおそらく自由競争よりいくらか格差が小さくなると思われる。
むろん、言うまでもなく「親ガチャ」問題は解決されない。こんなやり方は誰も認めないからだ。自分の子供が東大に入れるかもしれないのに、高卒の役人で生涯を終えることを良しとする親はまずいない。われわれ自身が職業や能力に資本主義的価値基準を適用しているのに、社会や政府がそれらを無視して運用されるはずがない。所詮、われわれの本音は 「自分の負けが確定した時だけうまいこと救ってほしい」 という、実に都合の良い妄想に過ぎないのだ。当然そのような妄想に社会を変革する実力などあるはずもなく、われわれは今後も自由社会の効能を謳歌し、代償を払わされ続けるのだろう。
あるいは、ひょっとするといつかガチガチの右翼政党が現れて、旧来の因習と地縁を復活させようと目論むかもしれない。僕は左翼なので本当は断固反対すべきだが、これまで無謬の正義と固く信じてきた自由主義が弱者をただひたすら弱らせ、強者の独走をむやみに加速させている様を見ると、いよいよその信仰心を保てなくなってきている。
しかし、僕はコンピュータが好きだ。オープンソースコミュニティが好きだ。きっと旧来の因習や地縁はそういった文化を排除しにかかるに違いない。外の世界と無制限に通信し、情報格差をもたらすインターネットを忌み嫌うに違いない。強権的な地縁社会が復活を遂げた暁には、僕の手元から個人所有のコンピュータやスマートフォンは奪い去られ、日課のランニングや筋トレは地場産業への奉仕に置き換えられる。既に知識の旨味を知ってしまった僕が、どうしてそんな暮らしに耐えられよう。
つまり、僕はもう自由競争社会の側にいる。ボーダーレスでグローバルな社会にコミットしてしまっている。自由競争の敗者がどれほど日々の苦しみに奥歯をすり減らしていたとしても、コンピュータを手放して地縁社会に帰依する選択はとれない。見方次第では、Arch Linuxを起動するたびに僕は回り回って弱者を蔑ろにしている。init.vimを編集するたびに僕は回り回って弱者を蔑ろにしている。誰かの幸福が誰かの不幸を招き、誰かの娯楽が誰かの苦痛を招く。逆もまた然りである。
「21世紀の資本」(トマス・ピケティ著)によれば、統計上、世界各国でもっとも格差が縮小した瞬間は政府が素晴らしい経済政策を実施した時でもなければ、個々人が頑張って貧しい隣人を救おうとした時でもない。戦争によってあらゆるものが破壊しつくされ、金持ちも貧乏人も等しく臓腑をぶちまけて死に様を晒した時だそうだ。