米国で最近流行りのムーブメントがある。せっかくの年の瀬なので僕はその最新トレンドをちょっくら紹介したい。一般にそれは 「Woke」 と呼ばれている。活動そのものを「Woke」と表すこともあれば、運動に与する人を「Woke」と言うこともある。文字通り、彼らは「目覚めた人」を自称する。一体、なにから?――われわれの社会に潜む隠れた差別的構造からである。
たとえば、ここに白人男性がいるとする。彼は五体満足で、シスジェンダーだ。この瞬間、彼は他者を抑圧していることになる。 なぜなら人種や性的志向の要素においてマジョリティに属しているからだ。Wokeの言い分によれば、マジョリティは生まれながらにしてマイノリティを構造的に抑圧する。これは個々人の行いとは無関係に、ただ息を吸って生きているだけでも変わりない。このようにしてすべての人間の各属性を点検し、マジョリティの抑圧グループと、マイノリティの被抑圧グループに選り分けていく。中間は存在しない。
抑圧グループに属する者は自身の特権性を自覚し、贖罪意識を持たなければならない。反対に被抑圧グループの者は権利意識に目覚め、抑圧グループによる無自覚な差別を糾弾しなければならない。さもなければ、どちらの場合であっても差別主義の肯定と見なされる。俗にCRT(Critical Race Theory)、批判的人種理論と呼ばれる一連の思考法は、米国の一部の教育機関で実際に取り入れられている。
これがどこまで正しいかは別として――まあ、言わんとすることは正直、解らないでもない。事実、のんべんだらりと生きている者が幸運によって気ままに生活できて、逆に環境に恵まれなかったがゆえにどれだけ研鑽を重ねても報われない、ということは確かにあるだろう。ある種の心がけとして前者が謙虚さを持ち、後者が無闇に我慢せず政治的解決を訴えるのは、まったくおかしな話ではない。話がそれだけで済むのならば。
しかし、われわれは現実がもう少し複雑なことを知っている。白人男性で、シスジェンダーで、五体満足の者の中にもプアホワイトと呼ばれる貧困層が多く存在する。彼らの境遇は貧富の差や産業構造の変化によるもので、個々人に非があったわけではない。ところがCRTはもちろん、それを中核とするWokeもこの実態をほとんど考慮してくれない。Wokeの裁定基準は、いわばポリコレポイント制度なのだ。 有色人種なら1ポイント、女性なら1ポイント、LGBTQIA+のいずれかに当てはまるなら1ポイント。だが、たとえ父親がヤク中だったり母親にネグレクトされていてもポイントは一つももらえない。同様に生まれつき裕福であったり、特別な才能を授かっていてもポイントは剥奪されない。
そうすると、なにが起こるのか。被抑圧グループの属性に自身を寄せつつ、それとなく学歴や職能、資産を得る者が出てくる。過去の特権階級は少なからずその特権性(爵位や家柄など)を誹られてきたが、新世代の権力者は特権性をなんら帯びずして権力を貪るのだ。まさに無敵の強者である。誰も彼ら彼女らを批判できない。ましてや批判者が抑圧グループの属性を持っていた場合、返す刀でむしろまずい立場に追い込まれてしまうだろう。
結果、米国のZ世代の39% は自身がLGBTQIA+のいずれかに当てはまると自認するまでに至っている。なんにせよ、それで1ポイント獲得できるからだ。幸いにもQ――クィアという属性はとりわけ多義的なニュアンスを持っており、自称する上でたいへん使い勝手に優れている。もし諸君らの中に極度の肥満者がいるならば、あなたも1ポイント獲得だ。今時分、高度肥満者は 「ボディ・ポジティブ」 として祭り上げられ、名誉あるマイノリティの仲間入りを果たしている。あなたがそれを本当に望ましく感じるかは関係なく、あなたはただちに被抑圧者としての覚醒を求められる。中間は存在しない。
Wokeは本来、生まれつきの属性に左右されず能力が評価される社会を目指していたはずだった。しかしあらゆる事柄に隠れた差別を見い出せば見い出すほど、なにが忌むべき特権でなにが尊ぶべき能力かを厳密に定義すればするほど、個人の素朴なアイデンティティは損なわれていく。最後に残るのはとどのつまり金を稼げるかどうか、履歴書やSNSのプロフィール欄に堂々と書ける学歴や職能があるか……という、いかにも資本主義然とした"客観的な"価値基準のみとなる。他方、裕福な者はポイントがあろうがなかろうが立場に応じた振る舞いを取り繕う余裕があるし、豊かな資本を持っていれば能力の開発も幾分容易い。結局、割を食うのは裕福でもなくマイノリティでもない、普通の人々だ。 上からは勉強不足を指摘され、下からは特権性とやらを糾弾される。
ともすると、なんだか逆差別的でさえある――米国の最新トレンドに馴染みの薄いわれわれはついそう考えてしまう。ところが、米国は広い。このようなポリコレ・スコアリングともいうべき茶番劇が横行している一方、南部の田舎ではただ外を走っていただけの黒人が、地元住民に車で追いかけ回され射殺されているのだ。人種差別は決して解消されたわけではない。当然、誇り高き南部白人は件のスコアリングなど鼻にもかけない。今でも黒人や女性を「しつけなければ」ならないと公言する団体は米国内にいくつもある。
こうした状況を踏まえると、都市部の米国人がどんなにくだらなくとも茶番に付き合わなければならない理由が見えてくる。要するに、それを拒否する行為は自動的にそっちの方――黒人や女性を畜生同然に見なす方――に振り分けられることを意味する。ごくごく個人的な、プライベートな会話では曖昧な振る舞いも許されるかもしれないが、ひとたび公的な場で意見を求められたら必ず片方を選ばなければならない。繰り返すが、中間は存在しない。
われわれは米国のこの現状から多くを学ぶ必要がある。中間が存在しなくなるのは、文字通り中間層の人々がどんどん減っていっているからだ。日本においては経済の停滞や少子高齢化がそれを招いたと言える。いつまでも給料が上がらないのに長く働かされ、世代交代が進まないがゆえに理不尽なルールやしがらみに苦しめられている。被害者にも加害者にもならない平和な日常が消滅し、誰もがどこかで痛めつけられ、その被害者意識が刃となって他の誰かを襲う。やがて人々は是々非々で物事を考えられなくなる。想定上の敵対者をやり込めるためだけの批判、批判のための批判に終始するようになる。際限のない応酬は憎悪と先鋭化を加速させ、ますます中間が失われていく。
こんなひどい状況を緩和するには、結局、可能な者がより強固に根を張って中間に留まり続けるしかない。これはすべての主張をあしらうとか、一切の政治活動を遠巻きにして暮らすことを意味しない。むしろ逆だ。すべての人々、ありとあらゆる属性の人々と積極的に交わっていかないといけない。できる限り多くの人々の立場を知り、相互理解に努める穏健な態度こそが中間の価値なのだ。 独自の価値を持っていればこそ、上下左右のいずれにも取り込まれないでいられる。
日本で中間が失われつつあるのは上や下、左や右ばかりの責任ではない。中間の人々が相応しい態度を取らず、様々な問題を場当たり的にやり過ごしてきたせいでもある。なにもいきなり壮大なテーマに取り組まなくとも、案外、近場に他者との交流を求める問題は散らばっている。
そう、たとえばマンションの廊下にばら撒かれたうんこを回収するとか。隣人のネパール人の代わりに日本語の文章を読んで翻訳するとか。近所の老人たちのポリコレ違反気味の雑談に付き合うとか。僕は左の人間だが、さすがにWokeやCRTは勘弁願いたいもんでね。中間がどっしりしていないと上下左右みんなどんどんおかしくなっちまう。