2022/04/05

土くれのささやき

料理を作り慣れてくると次第に他の部分にも気が回りだす。僕の場合は料理を載せる器に関心が向いた。動物の食餌と人間の食事に差があるとすれば、ひとえに栄養補給以上の要素をどれだけ見出だせるかにかかっている。ひいてはそうしてかき集められた様々な余剰が文化であり、世界観である。世界観を携えて生きることが僕たちにポリシーや信念をもたらす。

僕の食器に対する最初の接触は、ごく単純な嗜好の反映から始まった。すなわち好きな色をそのまま器に当てはめたのだ。ライトピンクが好きだからライトピンクの器、オレンジが好きだからオレンジの器。そうすると、食卓がにわかに派手になった。様々なアクセントカラーにあふれた食事の風景にしばらくは満足できた。

不協和を覚えたのは、所得に余裕が生まれて多様な食材を惜しみなく料理に使えるようになった頃だ。出来上がった華美な料理をビビットな色合いの皿に載せると、途端に強烈な違和感が押し寄せてきた。一見、絢爛な食卓だが、そこには皿が、器が、ライトピンクがオレンジが、料理を押しのけて我こそが主役だと主張し合う醜さがあった。一度そのように捉えると朝食の目玉焼きから昼食のペペロンチーノに至るまで、すべてが邪険に扱われているように思えた。

ビビットカラーの食器をメルカリに売り払ったのはそれから間もないことだった。きっと僕がライトピンクやオレンジをさして好まず、あるいは意識の外に置いていられる人間だったら逆にこうは感じなかったのだろう。全部があまりにも好きすぎて、いたずらに魅力を惹きつけるものだから、もっとも注目して然るべき料理の存在感が僕にとっては希薄になってしまう。

そこで次のテーマとしてミニマリズムを試した。僕が思いつくコンセプトはたいていコンピュータ文化のなにがしかに影響を受けているのだが、その中でもとりわけ根強いのがミニマリズムだ。機能に貢献しない装飾は一律に禁忌とされ、ガイドや補助の類をもデザインを濁す要素として忌避される。食器を食事のためのインターフェイスと捉えた際に、ミニマリズムに則した食器とはおそらく頑丈で、単純な形状をしていて、少なくとも単色かツートーンだろうと考えられた。

そうして辿り着いたブランドがHASAMI PORCELAINだ。波佐見焼は長崎県で江戸時代から作られ続けている伝統的な磁器である。しかし決して高級品の類ではない。リンク先の説明文にも記されている通り、むしろ古来より量産体制を整えることで磁器の普及に貢献してきた。その工業製品じみたバックグラウンドとブランドデザインは、僕の精神に大いに訴えかけるところがあった。なにも語らないようでいて、かえって雄弁にさえ見える。僕はさっそく必要な形状の器を買い揃え、使い始めた。

今までに試した数多の食器と異なり、HASAMI PORCELAINとの付き合いはかなり長く続いた。直近の引っ越しに際してやむをえず大部分の食器を処分した後も、このブランドの食器だけは諦めなかった。最終的には一、二種類の食器があれば差し支えないというところまで僕のポリシーは凝縮された。主役とは料理そのものに他ならず、食器とはあくまで機能に過ぎない。機能美こそが僕のポリシーだった。もしかしたら中には僕のメシ画像ツイートを見て「こいついつも同じ皿ばっか使ってんな」とか思っていた人もいたかもしれない。

そんな僕のポリシーに再び刷新の機運が訪れたのは、作家ものの陶磁器を展示・販売する俗に言う陶器市に赴いた時である。各々の食器が各々の世界観をこれでもかと誇示するにぎわいの中、地に伏して置かれた一つのマグカップが僕の注意を惹いた。それはなんというか――ずいぶんボロく見えるマグカップだった。色合いはくすんだカーキ色でとても鮮やかとは言いがたく、ところどころに汚しさえ付けられている。

隣に立てて置かれた白磁の大皿が日光に祝福されて燦然と輝く影で、この食器はあたかも木漏れ日を喰んで自生する生命を思わせた。気まぐれな陽の光に合わせて自身の姿形をも変化させたが、しかし卑屈さゆえではなくしたたかな生の証と見て取れる。機能美に徹した波佐見焼が物言わぬ岩石であれば、さしずめこれは土くれのささやきであった。確かになにかを言っているが、耳を寄せなければ聴こえない。食器の紹介文には「中村恵子 作」と書かれていた。

幾度となく食器選びを繰り返した僕は慎重深く、その場ですぐに食器を買い漁る真似はしなかった。陶器市を後にするとまずは件の陶作家について検索し、通販サイトで食器の一覧を見た。おおかた僕の予想は当たり、彼女の作る器はどれも一貫したコンセプトで作られていた。量産体制が確立されたブランドと異なり、作家ものの陶磁器は所望する器が常に手に入るとは限らない。ひとまず僕は意中のマグカップを注文したが、それさえ入荷を数ヶ月単位で待つ羽目となった。

いざ手元に届いてみると、いよいよ僕の期待が裏打ちされるのを実感した。食器は機能でしかなく、料理こそが主役との見立ては、今なら視野狭窄に陥っていたと素直に認められる。食器と料理の関係性は主従ではなく互助であった。器が料理を引き立て、料理も器を引き立てる。それぞれが相互に影響を与え、昇華させ、一体感を演出しつつも混合はしない。矜持に満ちた調和がそこにあった。

世界観の構築が済むと、後は必要な食器を揃え直すだけだった。中村恵子氏の陶器には黒や白の粉引もあるが、今のところ黒白は控えるつもりでいる。その手の色合いは僕を再び機能美の世界観に連れ戻しかねない。以下に続く画像群に氏の代表色である深緑がわりあい多く登場しているのは、器の世界観により深く耳を傾けたいがためだ。とはいえ単色一辺倒では色が空間にあふれすぎ、意図せずAmplifierされたささやきが絶叫に変わってしまう恐れも否めない。

そこへいくと粉引に青を混ぜた青粉引は、青とは言うもののグレーにも見え、しかし白にも見えなくはなく、やはり青でもあるような不定形の風情をたたえている。調和の深緑にとりまく存在としてこれ以上ふさわしい色合いはないだろう。ともすれば、安直に対照的と見定めることさえ的外れな予感がしてくるのだから不思議だ。毎朝食べる卵サンドイッチは今や独特の憂いをかもしだしている。

実用的な側面に目を向けると、いわゆる「スープ鉢」の使い勝手の良さには驚かされた。スープ鉢と名付けられたからにはスープ類を入れるのが主な用途だが、実際にはパスタも麻婆豆腐も炒めものもカレーも難なく受け入れてくれる。色違いの食器を使い分けられるほど僕はマメではないので躊躇しているが、ここまで使い勝手に優れると同型の青粉引も欲しくなる。

25cmの大皿はステーキ類を載せるのにうってつけだ。保温性を考えると鉄フライパンに載せたまま食べる方が当然望ましいが、やはり皿だとリラックスして食べられる。心なしか肉もリラックスしているように見える。

定食スタイルにするとこんな具合になる。中央に置かれた汁椀は山田平安堂の漆器だが、本来の豪奢さもこの世界観の空間においては鳴りを潜め、周囲に己を溶け込ませている。ところが他の食器を遠ざけ、漆器だけに焦点を当ててやるとたちまち持ち前の存在感を発揮しはじめる。これらの演出はこの場ではカメラレンズを通して行われているが、日々の暮らしでは僕たちが食器を手に持ったり、視線を変えることによっておのずと催されている。

こうした事柄について言語化する機会を常々窺ってきたが、一旦ようやく納得のいく文章が書けたと思う。食器が物を言うとか言わないだとかは、そもそもが人間の思い込みに他ならない。道具が口を利くわけがないからだ。作り手自身さえ語る言葉をあえて持たないこともある。だが、解釈の豊かさこそが僕たちを支えている。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Twitter | RSS | 小説