2022/05/25

人を増やすことのろくでもなさ

少子化はなにも日本に限った話ではない。中国や韓国もそうだし、アメリカやEUもそうだ。およそ先進国とは呼べない経済規模の国でさえ、出生率は減少傾向にある。極めつけは上記の画像だ。13億人超もの国民を誇り、間もなく中国の人口をも抜くと言われているあのインドが、とうとう人口置換水準を下回ったのである。

人口置換水準とは文字通り、その地域において人口を維持できる合計特殊出生率の値を表している。大抵は2.0とちょっとをキープできていれば均衡的と見なされるが、件のインドの数値はジャスト2.0。つまり今後これが回復しなければ、インドはいつの日か少子化に突入してしまうのだ。かの巨大国家でも人口減少には抗えない。この絶望的な事実をどう捉えるべきかちょっと考えてみたい。

増えない種は滅びるしかない

われわれ人類は他の種と比べて非常に豊かな目的意識を持って生きている。モーゼが 「人はパンのみにて生くるものにあらず」 と説いたのは約3700年以上も前のことだ。物質的、肉体的な充足ばかりに突き動かされるのではなく、精神的な、もっと高次の目標を携えて生きるべきとの考え方は、なにも近現代に特有の発想ではない。数千年の年月を経て、モーゼや先人たちの野望が現実の諸制度として結実したと言える。

しかしわれわれ現代人は少々やりすぎたのかもしれない。数千年前の人間には想像もできない抽象的な意識や理性を持ち、快適な社会を成り立たせるための理屈を巧みに練りあげてきた一方、繁殖するという原初の目的をほとんど忘れてしまった。 本来、それこそがすべての生命の唯一の存在意義だったはずなのに、今やこの宿命をしっかりと果たしている先進国は皆無に近い。

幸い、先進国国民の生命的怠惰を他の国の人々が補ってくれているおかげで、世界全体の平均出生率はまだ2.4を維持している。しばらく人類の頭数は増え続けるだろう。だがいずれ衰退の日は確実に来る。国家の経済成長と出生率には負の相関が認められており、インドがまさに経済成長に伴って出生率を落としたように、他の国々にも同様の現象が起こりうると予想されるからだ。

昔は人口爆発を契機に宇宙へ進出するSFが典型的だったが、今ではとびきりナンセンスな与太話の一つでしかない。都市化が進んでいる国とそうでない国のどちらが多いか考えてみればすぐに判る。地球は数百億人程度の頭数では到底埋め尽くせない。今も未来も地球はずーっとスカスカのままで、おそらく危険であろう宇宙開拓をそこらの人々がこぞってやる利点は薄い。

さて、そうするとわれわれはどうやら地球で少しずつ頭数を減らしながら生きていくしかないらしい。おまけに出生率は減っても平均寿命は伸びる一方だろうから、今後の人類は年々増える非生産個体を延々と抱え込む羽目にもなる。その上、巨大隕石がうっかり地球を擦りでもしたら、われわれはたちまち灼熱の衝撃波に焼き尽くされて絶滅する。人類の繁栄とやらは今のところ砂上の楼閣に過ぎない。増えず散らない種の末路は必ず灰燼だ。

もちろん、一部の物好きが宇宙に出張っていく可能性はある。技術革新次第では定住なんて話もありえなくはないかもしれない。個人的にはあってほしい――が、いつもこの手の話題で置いてけぼりにされるのは、果たして移住した人類はまともに繁殖していけるのか、 という疑問である。宇宙開拓などという壮大な目的意識を持つ人間が、素直に根を下ろして子作りに励むとは僕は思えない。もしできたならば、現代文明の一切合切を諦めたことになる。 実を言うと、これこそが今回のメインテーマだ。

われわれは無理強いされないと増えない

非常に不快な話をする。本エントリ冒頭の画像を見た時、際立って出生率が高い赤く塗られた地域が目に留まったかと思う。ビハール州と呼ばれるこの地域は、レイプが社会問題化している。 カースト制度の残滓により加害者男性がろくに処罰を受けず、逆に被害者女性が咎めを受ける事例も珍しくない。

ずいぶん昔にカースト制度は法的に廃止されているにも拘らずこうした因習が色濃く残っているのは嘆かわしいことだが、他方、ビハール州はインド国内で圧倒的な出生率を叩き出してもいるのだ。このように地域別の出生率について学ぶと、人権と自由の教えに薫陶を受けた先進国国民にとっては極めて不都合な予測にぶち当たる。

すなわち、経済はあまり発展しない方が繁殖に有利で、人権意識は身についていない方が繁殖に有利で、理不尽な因習に縛られている方が繁殖に有利で……要するに近現代的な価値観はかえって人類を緩やかな滅亡に追い込んでいるのではないか、 といった予測である。

しかもその度合いは、たまに政治家がうっかり口を滑らせて顰蹙を買うような程度の代物ではない。生まれで役割と上下関係が決まるカースト制度に支配され、レイプが事実上不問に付され、上下水道や電気、インターネットの整備もままならない地域の実情なのだ。出生率3.0という数字は、それほどまでに重い。薄々勘づいている思うが、ビハール州の経済水準はインド国内でもっとも低い。

ほとんど唯一の例外は経済大国かつ民主主義国家でありながら同様に出生率3.0を誇るイスラエルだが、これには避妊を禁じる正統派ユダヤ教徒の存在や、歴史的経緯から民族繁栄をなによりも重んじる国民の力強い意思などが作用していると見られ、やはりそう簡単に真似できたものではない。

つまり、子育て支援に保育園を増やそうだとか、教育費用を減免しようだとか、男女の出会いの場を作ろうだとか、そんなやり方ではもう間に合いそうにない。なにか手助けを施すのではなく、むしろ繁殖に関わる行為以外の一切を剥奪されないとわれわれは増えない。 地域別の出生率を見たところ、特に国民の教育支出が目立っていない発展途上国でも軒並み低下しているため、仮に先進国の国民が子供の教育を妥協しても出生率は大して回復しないだろう。

したがって、人類の繁殖を妨げているのは、豊穣な文化であり、人権の庇護であり、自由の謳歌であり、まさしく現代文明そのものということになってしまう。だが解ったところでどうにもならない。われわれの世代はこの問題にシリアスな態度で臨むにはまだ早すぎ、因習の時代に立ち帰るにはあまりにも遅すぎるからだ。かくしてわれわれ旧人類の文明は、繁殖に成功した新人類との対立を余儀なくされる。

反出生主義の誘惑

このように敷衍していくと 「ぶっちゃけ人類とか増える必要なくね?」 との結論に達するのはいかにも自然な成り行きである。出生とは本質的に不平等な営為であり、いたずらに不幸を増大させているという見立ては相応に理論強度が高い。確かに生まれさえしなければ少なくとも不幸にはならない。人類、別に絶滅したって構わないのでは? 宇宙? 行かなくていいよ。 そういう諦観はありえる。実際、Twitterには「反出生主義」を掲げる人々が大勢いる。

しかし僕はこれには明確に反対している。なぜなら反出生主義者の言う不幸の少ない緩やかな絶滅とやらは、全人類の大半が反出生主義者ではないという前提に支えられているからだ。人類の多くが反出生主義者になった世の中とは、次世代の発生を考慮しない社会である。そんな社会はおよそ持続可能性を持ちえない。ただ縮小再生産を繰り返すだけに留まり、避けがたい必然の貧困化にわれわれは苦しみ喘ぐことになる。

よって反出生主義者は永久のマイノリティでなくてはならない。彼らの言い分には一理あるかもしれないが、より快適な文明社会の存続には子孫の時代を見越して考えられる活発な人間が必要不可欠なのだ。ゆえに僕は反出生主義に反対せざるをえない。

とはいえ「よし、じゃあ今すぐ子供を2人以上作ろう!」ともなかなかならない。もし国民に繁殖を強制するような政策が提案されたら、それはそれできっと反対するのだろう。そうこうしているうちにわれわれの世代は時間切れとなり、この問題は後の世代に丸投げされる。後の世代もまた、さらに後の世代に回していく。結局、われわれは生命的怠惰を乗り越えられない。

こうして書き起こしてみるといかに自分勝手な振る舞いをやってのけているのかよく判る。反出生主義なんてまだ可愛いものだ。なにしろ 「自分は子孫を作らないかもしれないが、他の人にはじゃんじゃか作ってもらって老後の面倒を見てほしい(こちとら人権があるんやぞ?)」 と言っているに等しいのだから。いつかとんでもない罰が下るのではと省みるふりをしつつも、毎日漫画とかを読んで暮らす日々。

参考文献

インド一周旅行記
BBCニュース
Wikipadia
India in Pixels

©2011 Rikuoh Tsujitani | Twitter | RSS | 小説