2022/09/10

レスバ欲に抗う

赤の他人に議論を持ちかけてまともに成立することはまずありえない。理想形の議論を完遂させるには相手との信頼関係が必要不可欠だからだ。あけすけな言い方をすれば、友好を損ねたくない後ろめたさこそが議論を成り立たせていると言える。むろん、赤の他人相手にそんな余地は存在しない。

ましてや議論をふっかけてくる赤の他人はただの赤の他人でさえない。初っ端から意見が対立している。つまり敵だ。エネミーだ。好感度はゼロじゃない。マイナスからのスタートだ。そんな相手と取っ組み合ってなにかが得られると勘違いしてしまったのがインターネットの罪悪であり、レスバ戦士どもの夢の跡というわけだ。

かくいう僕もかつてはレスバ戦士だった。まだ恐竜が駅前を闊歩していた太古の昔、ツイッターでいけすかない輩にリプライを送りつけてはレスバを仕掛けていた。主な論敵は右翼、歴史修正主義者、自己責任論者などだったが、そこは本質とは無関係だ。僕はとにかく持論の正しさを認めさせたかった。時には炎上したこともある。頻繁にレスバしていると外野からも「そういうやつ」だと見なされるのか、逆に絡まれる機会も増えた。

それで本当に「正しさ」を思い知らせることができたのか? いいや、できなかった。そもそも議論自体がろくすっぽ成立していなかった。初めに言ったように対立状態の赤の他人は好感度がマイナススタートだ。嫌っている相手にわざわざ礼節はわきまえない。隙あらば揚げ足はとるし、完全に言い負かされていても屁理屈をこねて粘る。最悪、都合が悪くなれば黙殺する。

当然、レスバ慣れしてくるにつれてこっちもこっちで対策を講じはじめる。揚げ足をとられる前にとる。粘られる前に言質をとっておく。あえて隙を作って黙殺を防ぐ。こうして様々な手段で論敵の退路を塞ぎ、とうとう相手が感情を爆発させたあたりで今度は逆に無視を決め込む。これこそが唯一の勝利条件。インターネットの文化では先にキレた方が敗北扱いになる。僕は着実に勝利を重ねた。

ところが、レスバ戦士の旗を下ろす日は突然にやってきた。ある日、いつもの調子で右翼とレスバしていると、なぜか普段とは雰囲気が違うことに気がついた。なんというか――真っ当だった。まさに理想形の議論が成立していた。そして驚くべきことにあっさりと――その相手は僕の主張を認めたのだ。単に面倒くさくなって諦めた、という解釈もできるかもしれない。だが事実、彼は最後まで紳士だった。

そこで僕はどんな気持ちになったか? ――明確な勝利を手にして喜んだ? 違う。残念な気持ちになったのだ。とても残念で、消化不良で、かえってイラついた。なぜ、もっと醜く這いずり回らない? その汚泥にまみれた背中を突き刺してやるのが楽しいのに。 ……そうした僕の本性を自ら悟った刹那、相手がどこの誰であろうとレスバは金輪際やめようと固く心に誓ったのであった。僕は議論に強かったのではない。ただ気が狂っているだけだった。

同時に、別の側面にも目がいった。一部のアルファアカウントたちはなぜああも扇情的な言い回しを好むのだろうか? それは、相手を妥協させないためである。 和睦を壊し、止揚を妨げ、不変にして永遠の争いを画策する……。これこそが彼ら彼女らの人気の秘訣であり、インフルエンスの源泉なのだ。執拗な論敵がそこらじゅうにいると思い込ませられるからこそ、彼ら彼女はより長らく依存される。

前回のエントリの件で僕はずいぶんフラストレーションを溜め込んでいたので、迂闊にも「黒人エルフ」でツイート検索をしてしまった。既に理論武装を完成させた僕にとっては脇の甘すぎるツイートが次々と、たちどころに流れこんできた。今、この不愉快な連中を言論の刃でえぐるのはあまりにも容易い。だって、表現の自由――だろ? みんな賢しげにそう言ってるじゃないか――。

だが、結局やめておいた。どうせ無益な行いだ。そんなのはインターネットに脳を灼かれた暇人に任せておけばいい。僕はスマートフォンをしばし脇に置いて、余暇を「ロード・オブ・ザ・リング」と「ホビット」シリーズの復習に充てた。観るのはそれぞれ3回目と2回目だが、原作の改変が多い脚本でも未だに学びは多い。あっという間に一週間近くが経過していた。

驕ってはならない。赤の他人の考えはそう変えられるものではない。もし変えられなくても一刺しできれば構わないと思いはじめているのなら、インターネット地獄の窯の蓋はもう開いている。

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