2024/08/14

本売りまくりⅢ

前回の続き。8月12日、コミケ当日。ほぼ始発の電車でサークル主催者、東大生君ことenden――僕はいきなり登場人物の名前を出さず段階を踏むやり方が好きだ――の家に向かったところ、寝耳に水の新事実を知らされた。様々な事情により特装版の仕上げがまだ完成していなかったのである。彼は徹夜で作業を続けていたものの無慈悲にも太陽はみるみるうちに昇り、サークル参加者の入場時刻は刻一刻と近づいている。

オタク学生に特有の本棚とガジェット類と謎のオブジェで満ちたワンルームで、僕も自分ができそうな作業を手伝ったが今さら大して能率は上がらない。気がつけば時刻は7時半を過ぎ、8時に迫りつつあった。本来、サークル参加者は9時半前に受付を済ませなければならず、ここから国際展示場駅まで1時間以上かかることを踏まえると今すぐに出なければ間に合わない。

そこで、我々は究極の決断を余儀なくされた。「特装版は作りながら売るしかない」 急ぎ、未完成のモルタルの塊と作業道具、そして通常版の本を台車に積み上げ、切らしたガムテープを買う時間も惜しんで封もせぬまま係留――今になって考えるとマジでありえない限界すぎる行動で駅に跛行した。

してみると、鉄道インフラが高度に発達した帝都東京といえども理想的なバリアフリー化には未だ及ばない。なにしろエレベータが遠い上に動線も悪く、最上階に昇ってから一階ぶん降りるなどの不自由が所々に存在する。頼みのエスカレータは床面積が狭いため二輪の台車でさえ満足には乗りきらず怖くて使えない。さらに電車の車輌とホームの間に隙間が空いているせいでいちいち持ち上げないと乗り降りもできない。加えて、満員電車もある。死。

これでは車椅子ユーザやベビーカーを押している人たちはさぞ不便を強いられているに違いない。我々が引いているのは商品といっても所詮は物でしかないが、彼ら彼女らが運んでいるのは自他の身体、すなわち生命そのものだ。とはいえ、この状況下では設備があるだけまことにありがたいと感謝せざるをえない。本当になにもなければ乗り遅れなく国際展示場駅にたどり着くのはまず不可能だっただろう。

着いたら着いたで今度は5光年に匹敵する東京ビッグサイトへの道のりを踏破しなければならない。太陽はとうに高く飛翔して、白塗りの地面を鬱陶しく燦然と照らしている。サークル参加者がここを歩くには遅い時間だとわざわざ教えてくれているのだ。一方、ビッグサイト手前の広場では日傘、折りたたみの椅子、空調服、その他多種多様の冷感グッズで防備を固めた一般参加者の群れが入場開始を虎視眈々と待ち構えている。設営にかかる時間から逆算するともはや一刻の猶予も残されていない。

しかしどうやら、コミケ運営は正規の入場時刻に遅れたサークル参加者に救済ルートを敷いたらしい。即席の動線に従って黙々と歩いていくとやがて地下駐車場に到達し、そこで受付が行われた。レインボーカラーのリストバンドを受け取り、西ホールから果てしなく遠い東ホールに移動を続け、辛くも目的地の東f33bに着いた頃には一般入場開始の約10分前だった。同人誌即売会ではお馴染みの開幕アナウンスと万雷の拍手が鳴り響いた直後、我々の設営も完了した。

僕ときたら売り子にあるまじき汗まみれの状態、てんで慣れない台車の操縦に腕が痛み早くも疲労困憊、ここから特装版のリアルタイム制作と接客販売が始まるという狂気の現実を受け入れるのに少々の時間を要したのは言うまでもない。しばし放心した後に僕は接客、endenは制作に分かれて各々仕事にあたった。幸か不幸か、午前中はあまり来客がなかったため束の間の休息を得られた。

左右のブースに続々と人が集まる傍ら完全にアウェーの空気感に耐えるのはそこそこ厳しかったが、客の立場に立ってみればそれもそのはず。我々の本は通常版でもハードカバー並に重く、特装版は固めたモルタルが付くのでさらに重い。間違いなく最初に買うべき代物ではない。それでも時折、友人たちが挨拶に来てくれたおかげでなんとか気力を保つことができた。

想定通り昼過ぎには一転、ぽつぽつと客足が伸びだした。一見さんの割合が多いコミケでは以前の即売会とは異なり、なるべく詳細な説明を心がけないといけない。コミティアの時と同様に絵じゃないと判った途端に去っていくお客さんはさすがに難しいとしても、長くページをめくり続けている人にはより丹念に売り込みを行った。

他方、企画を共にしている僕自身でさえ驚いたのは特装版の売れ行きの良さだ。赤字覚悟で一生懸命に作ったと言っても事実、値段が高く重たい外箱をもともと買うつもりはなかったはずなのに宣伝文句一つで手に取ってくれたお客さんが何人もいたのだ。ここへきて僕は異常装丁の持つ底知れぬパワーをますます実感させられた。

特に印象に残っているのは微に入り細を穿つような質問をしてくれた2人組のお客さんだ。装丁の全容を把握しているendenが買い出しで不在のなか頑張って応じたが、最後にはうまく答えきれず逆に力不足を感じてしまったほどだった。特装版と通常版を一部ずつお買い上げ頂いた後に「自分たちはこういうものを作っている」とありがたくも商品を賜った。

ところがどっこい、僕はこの手の界隈ではずぶの素人。軽い気持ちで「あざっす」と受け取り、帰ってきたendenに報告するやいなや彼は「いやいやめちゃくちゃ有名人だから! その人たち!」と絶叫してXのアカウントを見せてくれた。なんとフォロワー10万人超。そうだ、ここは強い人々とカジュアルに出くわしかねない異常空間だった。「”今日見た中で一番ぶっ飛んでる”って褒めてたよ」と伝えると彼はとても興奮していた。

後半には特装版の売れ行きがリアルタイム制作の生産速度を追い抜き「後で来てくれたら渡せます」などと実質的に予約販売の形態を採るに至った。朝方、限界移動をしながら「もし全然売れなかったら東京湾に投げ捨てて帰ろう」と悪い冗談を交わしていただけに、あるいは制作の辛苦を知っているだけに、喜びもひとしおである。

午後4時、閉幕のアナウンスと同時に再び拍手が鳴り響く。疲弊と不安にまみれた開幕直後とは裏腹に、終わってみれば特装版は完売、通常版もコミアカ、文フリ、コミティアに続いて4回目の出展にしては全体の半分ほど売れてなにげに上々の戦果を獲得していた。余った在庫は例によってメロンブックスの委託販売に回すので興味がある人はここから購入されたし。来週頃には買える。ちなみに、僕の作品は一番最初と最後に載っている。あわよくば感想も欲しい。

帰り道、ずいぶん軽くなった台車を引いて嘘みたいに空いた座席に腰を下ろした途端、緊張の糸が切れて睡魔がやってきた。今まで背を向けていた疲労感が突然に振り返って襲いかかってきたかのようだ。隣に座るendenはすでに入眠して肩にもたれかかっている。だが、早々に起こすのも酷だ。徹夜してまで当日に間に合わせようとしたのだから。紛れもなく最大の功労者に他ならない。

最寄り駅で彼を起こして降り、マンションの静かなエレベータの中でどちらともなく会話が発せられる。「ところで次の本、いつ締め切りになる?」次回は塩の結晶を装丁に用いた合同誌が企画されている。正確にはいつだか覚えていないが、たぶん先週くらいにそう決まった。

「10月末入稿予定だから……9月末」「もう1ヶ月半しかないのか」「急いで告知を打たないと」こうして、ついに一つの物語が閉じられ、急速に新たな物語が紡がれはじめた。末筆ながら『戦略級魔法少女合同 黒点』の制作に関わった人々、手に取ってくれたすべての方々に深く感謝を申し上げたい。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説