2024/09/21

家系へのシフトチェンジ

昔、ラーメン二郎がとても好きだった。徒歩圏内に二郎インスパイアが2つあり、さらに学校から自転車で行きやすい距離には目黒店もある好立地に恵まれていたおかげで、麺もヤサイもニンニクも不足する日はなかった。どうしてトッピングが全部カタカナ表記なんだろうという疑問とは裏腹に、昼も夜も二郎に通い続けた。間違いなく当時、身体を構成する成分のうちの何割かは二郎だったと思う。

大量の油脂と炭水化物とたんぱく質を飲み込むように胃袋に叩き込むと気分が高揚してとてつもない満足感に包まれる。完食にかかる時間は短ければ短いほど望ましい。15分よりも10分、10分よりも5分で食べきれば脳みそから染み出す快感がより一層高まっていく。大学に進学した後も最寄りの二郎系を探したのは言うまでもない。

無料で「麺マシ」ができるネ申インスパイア店で増せなくなったのが25歳頃の時だ。すでにその頃にはさいたまに引っ越していたのだが、たまたま近くを訪れた機会に乗じて啜りに馳せ参じたのだった。しかし、二郎系の麺量は標準でも250〜300g、それの「マシ」ともなれば最低でも350gくらいにはなる。ちょうど隣で着丼していた「麺マシ」を見た瞬間、なぜか逆にテンションが盛り下がったのを明瞭に覚えている。

二郎にかぎらず、大量の食べ物になにか引け目みたいなものを感じはじめていたのだ。若い頃は好きなものを好きなだけ腹の奥にスタックしていく喜びで満ち足りていたのに、歳を重ねるごとに他の懸念が頭にちらつきだす。こんなに食べたら仕事のパフォーマンスが落ちる、夕飯にほかのものが食べられなくなる……etc、加えて二郎系は異常極まる行列と翌日の口臭も問題となる。

これらはすべて「予定」の概念だ。歳を重ねると予定に執着する。時間管理と効率に囚われる。キャリア形成に応じて利害関係者が増大する傾向を踏まえると適応的な変化には違いない。だが、気心の知れた間柄や自分の都合のみで容易に操作可能だった概念が年相応の立場と引き換えに失われると、今度はその価値観を強く内面化してしまう。

つまり、自らの営みそのものを予定的に設計しがちになる。常に一定のパフォーマンス、一定の予測可能性を保てる形で日々を過ごそうとする。それを妨げかねない要素は極力前もって取り除こうと考える。そこへいくと暴飲暴食は眠気、倦怠感を誘引して一日のパフォーマンスを低迷せしめる仇敵にほかならない。

こうした認識は過度の膨腹感を疎み、満腹中枢を健全に働かせる効果へと繋がる。結果、より少量で満足した気持ちになる。精神的には若い頃の勢いでたらふく食べて充足したくても、肉体の方が先回りして満腹のサインを示すのでどんどん気分が萎えてしまう。まるで枷を嵌められたかのようだ。

そして、31歳の現在。僕はもう二郎系を食べられない。直近の1、2年は「豚山」などの資本系のインスパイアに助けられていた。量が比較的少なく、長期の滞在に寛容だからだ。しかし、盛り下がった箸の動きに合わせてのろのろ食べていては得られる快感も得られない。僕はもはや二郎系の客ではないのである。

別に濃い味付けが嫌いになったわけじゃない。僕はしょっぱいもの、辛いもの、甘いもの、総じて味が濃くて刺激の強い食べ物が大好きだ。ただ、ひとえに満腹中枢を壊せなくなってしまった。そんな折に、僕の目の前に現れた新たな選択肢が家系であった。

家系と二郎系は共に「そういうジャンクな感じのやつ」としてまとめられがちだが、まったく似ていないし全然非だ。事実、二郎系が好きだった頃の僕は家系があまり好きではなかった。ところが二郎系が食べられなくなった今では逆に家系のコンセプトに好感を抱いている。腹を下しかねないほど油脂が多く味が濃いのに、標準量はそうでもない。二郎系の麺ヤサイ半分よりも少ない。

スープを一口啜った途端、強烈に襲いかかる塩分と後から押し迫る糖分の暴力的な調和を感じるたび、自分が未だ理性の檻に閉じ込められていない原始的存在であることに満足する。物量で快楽を生み出す形式の二郎系は、実はここまでスープは濃くない。この決定的な違いが家系へのシフトチェンジをもたらしめたと言える。ライス? あっ、(糖質が気になるので)無しでお願いします……。

ちなみに、今のお気に入りの店は渋谷の侍神田のわいずだ。前者は味だけなら一番好きだが、後者には会社帰りに途中下車して寄れる利点がある。もし他に都内で食べられる名店を知っている人がいたらぜひ教えてほしい。夏の間に有名どころはだいたい通ったものの、家系は種類が多すぎるゆえ店を押さえるのも一苦労だ。

©2011 辻谷陸王 | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説