2025/03/05

二つのルールの狭間で

最近、興味深い話を聞いた。子育ての難しさだ。ある母親いわく、子どもがなにかをこぼしたりして粗相をすると、自分で掃除をするように言いつけているという。といっても、せいぜい床や机を拭く程度で、躾としてはごく妥当に思える。まもなくその子は後始末の作法を身につけた。

ある日、母が料理中にうっかり手を滑らせて床を汚してしまった。ちょうど子どもが近くにいたので「代わりに掃除しておいて」と頼むと、その子は頑として言い張った。「自分のことは自分で――」母親が繰り返し言っていた叱責である。結局、掃除は後で母が行った。

さて、この件について純粋に理屈を問うかぎり、子どもの主張は完全に正しい。教えられたルールを平等に適用している。どんな事情とて母親が自ら犯した過ちには違いない。であれば、自分と等しく母も自ら後始末をつけるべきとの認識は理に適っていると認めざるをえない。

だが、社会適合的には明らかに不足している。学校や職場、公共の場で困っている人に手を差し伸べず「自分のことは自分でやれ」などと言い放つ人は、たとえ自己管理に長けているとしても人間関係には恵まれず孤立するだろう。そしていつか訪れる衰退の間際、誰にも助けてもらえず社会から追いやられることになる。

これはまったく理屈に合わない話だ。だとしたら「自分のことは自分でやりなさい」と教えるのは誤った教育なのだろうか? 「頼れるならどんどん人を頼りなさい」と教えるのが正しい教育だろうか? 否――どうであれ自己完結的なのは望ましい――他力本願の人生など危なっかしくて仕方がない。

そこでやむをえず「自分のことは自分でやった上で、他の人も助けなさい」と教える。おそらく誰もがそう教わってきているはずだ。しかしその言葉に子どもが納得する道理はない。「助けなくてはならない他の人」は「自分のこと」をやりきれなかったのに、どうして自分が他の人の仕事をやらなければならないのか?

かつての封建的な教育は、これを階層化された秩序なのだと教えた。裕福な家庭では掃除は奴婢が行う。子どもの身の回りの世話も雑用も、すべて彼らがやらなければならない。主人は親でも子どもの機嫌を損ねた奴婢は激しく打擲される。その傷跡は年老いても残り、身に深く刻み込まれる。

また、家を守るためには同格の貴族とよく付き合い、兄弟親族とも仲良くしなければならない。たまに一方的に与える時期があっても一族の体面を保つ上では必要な経費と捉えられる。与える先が他所の家で、もし相手が返礼に窮すればそれは競合を挫く格好の機会となる。

その環境において、じきに子どもは理解する。自分は親に逆らえないから親の言うことを聞かなければならない。同様に、奴婢は自分に逆らえないから自分の言うことを聞かなければならない。同格の者と助け合うのは体制を維持するためだ。つまり「他の人も助けなさい」とは主従と利害に結ばれたルールと見なされる。

また別の環境において、奴婢の子どもも理解する。自分が自分のことをしても決して褒められず、それどころか汚泥にまみれてでも他人を助けなければならないのは立場が弱いからなのだ。しかし同格の者と助け合うというのは良い教えだ。貴族よりも奴婢の方がはるかに数が多い。

ある日、革命が起きて屋敷に火が放たれる。壮大な焚き火に照らされて爛々と光る刃の前では、自分を散々こき使ってきた主人が豚のように泣きながら命乞いをしている。今、自分は強くなった。元主人の四肢をもぎ、生皮を剥いで一族全員の首を晒しても咎める者はいない。

実のところ、数百年余の年月が過ぎてもこの教えは廃れていない。奴婢が解放され、貴族から特権が剥奪されても種々の資本が幅を利かせ、人々は相変わらずその権威の前に平伏している。勤務先の企業、年収、職位、学歴、人脈、あるいはSNSのフォロワー数。なにかにつけて序列を設ける仕草は依然として健在だ。階層をひたすら上に辿っていくと、世界の富の約八割を握る上位一割の人々に到達する。彼ら彼女らが地球の王族なのかもしれない。

なんにしても年端のいかない子どもに真意を伝えるのは難しい。結局、親の権威、実力を行使して「いいからやりなさい」と無理強いするしかない。理屈に反する仕事を強いられた子どもは数百年前の奴婢と同じく世界を捉え、学校や職場でも程度の差はあれ秩序的に振る舞いはじめるだろう。かといってなにも教えなければ、単に社会に不適合な子どもに育つ。

片や、なぜか人生の開闢からやたら愛される人々がいる。家庭と教育に恵まれたいわゆる良家の子息である。彼らは別に上位一割に属する資本家ではない。大半は出世したサラリーマン家庭の出自だ。にもかかわらず、まだあどけない面持ちを残す彼ら彼女らの可愛らしい物腰を見るにつけ、僕などはほのかな嫉妬心と身分違いの庇護欲が綯い交ぜになった感情をしばしば掻き立てられるのであった。

彼ら彼女らは最高効率の善良さを発揮している。一体どこでどのようにして培う才覚なのか――分け隔てなく愛想を振りまいているように見えてその実、生まれ持った観察眼で巧みに邪悪な者を遠巻きにせしめ、誰からも広く愛される一方で決して軽視はされない。ゆえに彼ら彼女らは大抵いつも機嫌がよく、なんなら怒っていてもなお可愛らしい。

これぞ「自分のことは自分でやった上で、他の人も助けなさい」という教えの、リベラル的な極地と言える。天然ものの愛想を対価に通常では手に入らない資本を手にして、一見すると割に合わない労役が本人さえ意図しない遠回りで実を結ぶ。暴力と謀略が淘汰された安全な市民社会においてはKawaiiが利益を最大化する。序列を意識せずして序列の上澄みに立つ。

とはいえ、これを効果的に実践するのは非常に困難だ。見様見真似で八方美人を演じてみても有効な能力なくしてはまさしく奴婢並みの小間使いに堕してしまう。そんな哀れな道化に誰も敬意など払わない。やがて本来負うべきではない責務の山に埋没し、責務の海の底で溺れ死ぬだろう。

かといって誰も彼もを疑ってかかり露骨に人を値踏みすれば嫌味な態度に角が立ち、一時の奉仕によって得られたはずの機会を逸し、自分の歩幅と肩幅に押し留められた悪い意味で等身大の了見しか持たない些末な人生に甘んじる顛末となる。そのような消化的、保身的な暮らしをするには現代の寿命はあまりにも長すぎる。

こんな事柄は尋常の教育ではまず教えられない。遅まきにでも気づいた人々は何十年もかけてその欠片を掴み取り、もっと早く知っていればとやりきれない後悔を胸に、一握りのKawaiiを手のひらに秘めて二十一世紀の道程を地道に歩み続ける。その頭上を、純良な初期教育を受けた子息たちが高速で飛び去っていく。どうしてあんなところで立ち止まっているのだろうとでも言いたげな、しかしとても愛想の良い笑顔を浮かべながら。

近年、世界各国で右派政権の台頭が相次いでいる。アメリカ合衆国でもトランプ政権が発足すると今までのルールはなんだったのかとばかりに、主従と利害の関係に代表される強者の論理が突出しはじめた。どう見ても奴婢の側に属する人々が彼らに拍手喝采を送るのは一見不可解でも、上記の挿話を導入に敷けばだいぶ分かりやすいのではないかと思う。

要するに、リベラルのルールは理解が難しい。彼らの世界は優雅さを競う審査員付きの氷上であり、人生の最初から最後まで続く終わりなきフィギュアスケートだ。様々な言動、振る舞いの所作が仔細に採点され、いついかなる時も飾り立てた最高のポーズを要求される。当然、優れた教育を受けた器用な者ほど得点に事欠かず、粗末な動きを見せる者はスポットライトの外側に弾き出される。

それでもたまに氷上でトッププレイヤーがうっかり転ぶ時がある。だが彼ら彼女らは持ち前の勤勉さと実直さを活かして必ず挽回を図ってくる。対して賤しい生まれの者は、たとえ奇跡的に高得点を得ても間断なく継続される長丁場に耐えきれず敗退を余儀なくされる。結果、やればやるほど点数の差が開く。ルールが網羅的で緻密であればあるほど、かえって万人には適さなくなる。

そこへいくと、トランプとプーチンのルールは理解が簡単だ。彼らの世界は度胸を競うギャングの鉄火場であり、無制限にレイズできるポーカーだ。ルールは強者に都合よく改変可能だが、時には大番狂わせもなくはない。なけなしの金を失って速やかに人生の幕を下ろす有象無象を尻目にえいやと振ったサイコロが小貴族を打ち負かし、その瀟洒な外套を剥いで身に着けることができる。

現在、アメリカでは新設の政府効率化省が未曾有の権勢を振るい、大勢の公務員が地位を追われている。その場の勢いで貴重な人材を手放すのは明らかな軽挙妄動だが、実はこれこそがトランプ支持者たちの本懐に他ならない。あたかも自分の眼前で貴族が爵位を取り上げられ、市中を引きずり回されているかのような様は先祖返りした脳髄に響く快感である。彼らは今、強くなったつもりでいる。

こうなると多少の運に支えられて辛うじて良民の装いをしている身としては大層複雑な気持ちだ。トランプやプーチンのルールは不愉快極まりない。単なる保守回帰ではもはや片付けられない。適切な手続きなしに人々を場から追い立て、少なからず各々の家庭と環境を破壊し、不当に領土を奪う国家の存在を容認するなら保守というよりは蛮族とさして変わりない。

他方、清潔で美しいリベラルのルールが優勢に回ると僕のような者は到底立ち行かない。そもそもの前提条件が違いすぎるのに、さも純然たる人格で順当に劣後したかのごとく採点されるのは面白くない。極端に多すぎる指標は多様性をもたらすどころか、逆に画一的な選別に繋がる側面をそろそろ認めてほしい。

数少ない希望はどんな支配も永久には続かないことだ。獅子と巨象が衝突する二つのルールの狭間で、なるべく頭を低く垂れて生き残った後には新たなルールへの適応を迫られる。願わくば次はいくらか清潔で、いくらか簡単だと嬉しい。

©2011 辻谷陸王 | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説