前作から3年。待ちに待ったアバターの最新作は、果たして期待通りの作品であった。より強化された映像美に加え、前作で投入されたHFR(ハイフレームレート)と前々作の3D映像を融合させ、3DかつHFRかつ3時間超の映画という超重量級のコンテンツへと進歩を遂げている。
正直なところ、ここまでコンテンツが豪華になると、さながら満漢全席で胃もたれを起こす客のごとく、途中でついていけなくなってしまう人も出てくるだろう。かくいう僕も尿意と格闘しながらフレームレートが頻繁に切り替わる立体映像をガン見し続けるのは、少々しんどかったと認めざるをえない。だが、そうまでしなければこの映像美を得られなかったのも事実である。
以前に書いた評論記事で語ったように、予想の一部が的中して今作ではナヴィ同士の争いが描かれている。しかもただの内戦ではなく、片方の陣営に地球人が加担して最新兵器を供給するという、一作目から連綿と続く植民地支配のモチーフを徹底的に曝け出す構図となっており、いわゆる典型的な白人酋長ものから脱皮するための脚本作りがうかがえる。本稿では分野ごとに分けて本作を論評していく。
映像について
前述した通り、本作では通常秒間24コマで描画される映像に、秒間48コマの映像を加えた仕様となっている。秒間24コマ超過の映像作品をHFR(ハイフレームレート)作品と言い、特にアクションの多い映画作品においてなめらかな映像を追求する目的で、以前から繰り返し試みられてきた。しかし、なめらかすぎる映像は悪い意味で現実に近く、あたかも旅番組に似たチープさを視聴者に与えてしまう。
上記は前回の評論記事でも引用した映画『ジェミニマン』の秒間60コマバージョンだが、3年経った今観ても旅番組に乱入した外タレのサバゲーに見える。生まれた時からデジタルネイティブだの3Dゲーム世代だのと言われてきた僕の年頃でもそうなのだから、もっと上の年代にはなおさらそう映るであろうことは想像に難くない。
こうした背景もあり、今作も前作同様に「最大48コマ、部分的な採用」のアプローチが踏襲されている。しかし、2作続けてこの形式を観た結論を述べると、やはり全編48コマで撮るべきだったのではないかと思う。HFRの映像が旅番組に見えるのは実写の都合であって、映像内の大半がCGで構成されている本シリーズではさほど問題にならない。むしろフレームレートが切り替わるたびにシーンの移行を認識させられて、没入感的にも視神経的にも負の面が大きかったと感じる。
特に後者への負担は無視できない。ただでさえ立体映像なだけあり、ともすると乗り物酔いのような感覚がまとわりつく。どんなにすばらしい映像であっても具合が悪くなれば楽しめない。一説にはリフレッシュレートが高い映像も酔いやすいとの話もあるが、それでもコロコロと切り替わるよりはずっとましだ。秒間48コマならYoutubeのガジェットレビュー動画よりは低い。
次の第4作目の公開は2029年末に予定されている。2010年に生まれたα世代の子たちが新成人に育っている頃合いだ。もしかするとその頃にはHFRの全面採用も再び検討されうるのではないか。実際、CG主体のアクションシーンとHFRの相性はとても良く、本来ならまず捉えられない細かな活劇も目に入り込んでくる。何度か商業的に失敗したくらいで葬り去るのはあまりにも惜しい。現場の決断に期待したいところだ。
部族について

本作では神の代わりに火を崇拝する部族が登場している。彼らは惑星パンドラの神「エイワ」に見放されたと感じた結果、厳しい環境で生き抜くために拝火教の信仰に目覚めたのだ。調和を尊ぶエイワに背を向けた彼らに共存の意思はなく、同じナヴィだろうと地球人だろうと隙あらば略奪を仕掛けてくる。こうした敵対勢力の登場は、物語の筋を順当に追えば驚くには当たらない。
そもそも一作目から明らかな通り、ナヴィは概ね争いを好まない種族だとしても争い自体をまったくしない生き物ではない。狩猟にしては過剰な騎乗技術や洗練された弓術、色とりどりの戦化粧などから、間違いなく同族同士での過酷な争いがあった歴史がうかがえる。それがエイワ信仰によってか、はたまた調和を学んだ末にエイワの存在にたどり着いたのかは分からないが、最終的に彼らは平和を選んだ。
そこへやってきたのが、地球人である。これはやや美化されたネイティブアメリカンと、入植者の関係に近い。今作ではこの敵対部族に、地球人側の策略の一環として武器が与えられる。史実でもアパッチ・スカウトやリトルビッグホーンの戦いに代表されるように、入植を狙う勢力が現地の対立関係を利用する例は多く確認されている。
むろん、そうして戦果を挙げた現地人が入植者に終生重用されるなどといったうまい話はなく、敵を削れるだけ削ったら武器を取り上げられて即座に駆逐せしめられる運命であった。今作でも地球人側がそうした狙いを持っているのはしかと描かれている。だが、そこへイレギュラーとして登場するのが、他ならぬ主人公の宿敵、クオリッチ大佐だ。
クオリッチ大佐は一作目で主人公に敗北して戦死するが、2作目で人格データをナヴィの肉体に挿入する形で復活を遂げた。優れた肉体を手にした彼はナヴィならではの戦い方、ナヴィの生き方を学んでいくうちに、徐々にではあるが身体的な親しみを覚えはじめている。自分の息子がすでにナヴィたちに受け入れられ、表向き敵対していても土壇場では命を救い合う特異な関係性からも、彼と地球人側の隔たりは当人の認識以上に広がっていると見るべきだろう。
つまり、大佐はかつて主人公がそうであったように、最新の武器を供給して戦い方を教えられる軍人でありながら、地球人の立場を放棄できる位置にいる。地球人では息もできない環境で平然と生活を営み、ナヴィの肉体で山々を駆け巡り、それでいながら地球人側の事情にも精通している。その上、狡猾さにかけては主人公をはるかに上回る。物量で劣るナヴィが地球人の軍隊に勝るには、またとない有望な人材と言える。
その証拠に、ナヴィの姿で敵対部族を従え、基地内で部族の長と褥をともにする彼に対して、地球人側の司令官の態度はどこか冷淡でよそよそしい。彼がいなければもっと困っていたはずなのに、一回のミスで謹慎を命令するなど、あからさまに警戒の態度を鮮明にしている。地球人が戦いに勝利してもしなくても、いずれ自分の立場がどうなるかは彼自身もうっすら理解していたと考えられる。
クライマックスシーンで大佐が足場から身を投げたのは、単に形成が劣勢に陥ったからではない。ここで逃げ帰っても、逆に勝っても、自分の行く末は死でしかないことを悟ったのだ。だが、彼の最後のシーンは業火に焼かれる寸前で打ち切られている。本当に死を迎えたかどうかはまだ分からない。
強い母親像について

ジェームズ・キャメロン監督は強い母親が好きだ。古くはターミネーターやエイリアン2の頃から、強い母親がいかに猛々しく敵を打ち砕くか寝ても覚めても考え続けている。何十年も飽きずに追い求めている様子を見ると、もはやそういうフェティシズムの領域に達していると思う。作っても作っても彼は不満なのだ。母親はどんなに強くしても丸まってしまう。
それは、男性目線で見た母親像にどうしても寛容さや慈悲深さの印象がついて回るからだ。幼き日の過ちを受け入れ、優しく微笑んで許してくれた母の記憶が、どこかにひっそりと天井を設けてしまう。結果、どんなに強くてもなんだか手ぬるさが残る。その天井は2作目で「息子には息子を」と言い、大佐の息子を刺し殺す寸前にまでいったネイティリによって、だいぶ引き上げられたと思われる。
しかし、今作ではその強い母親像にさらに磨きがかかっている。妊娠して身重であっても男の戦士たちと肩を並べて戦い、最期には名誉の戦死を遂げる母親の姿、優しくあどけない印象の残る少女が「地球人を全員殺せ!」と叫び、生き物を使役して次々と敵を屠っていく姿、そして、前作にも増して勇猛に戦うネイティリの獅子奮迅の活躍ぶりからも、ますます強い母親像、ひいては女性像の刷新が図られている。
あえて言葉を選ばずに言うなら、これはもう殺人鬼一歩手前ではないか? 否、状況にかかわらず戦いをまっとうするのは組織を守る者の責任なのだ。事態が変わったからといって急に「ごめんなさい」「いいよ」は通用しない。そこに慈悲は存在しない。この容赦のなさは、なにも主人公の側でのみ描かれているわけではない。
本作で出番が増えた地球人側の司令官は女性である。また、敵対部族の長も女性だ。言うまでもなく、これらは意図的な配役に他ならない。彼女らは立場こそ異なれど、集団組織の責任を担っている。組織に責任を持つ者は日和れない。日和って妥協すれば、個々が組織のためになげうったリソースが割に合わなくなるからだ。同胞の首が一つ切られたら、最低一つは切り返すか、応分の見返りを得ないと収支が合わない。 これこそが、地位ある者が組織に対して負うべき責任なのだ。
こうした役割は、歴史的にも物語上でも多くは男性が担ってきた。かつての作品上の強い母親は実力的には強くても、それは降りかかってきた火の粉を払う形の強さであり、清算のために相手を地の果てまで追い詰める強さではない。このように整理すると、監督が描き出したジェンダー感がいかに急進的なものかよく分かる。R指定ではない作品でここまでやるのは珍しい。
信仰について

本作では今まで謎に包まれていたエイワの実体にたどり着く。敵対部族が「エイワに見放された」と憎しみを募らせていたり、主人公たちの側でも敵に「エイワは助けに来ないのか?」と煽られて「助けには来ない」と答えていたりする様子から、もとよりエイワは救いの神として信仰されているわけではない。個々の事情には取り合わず、あくまで惑星全体の調和を司る存在とされている。
だとしたら、そこに住まう人々がエイワを信仰する意義はなんなのか? なにもしてくれない相手を信じるメリットはない。にもかかわらず彼らが篤く信仰している理由は、エイワが自然との橋渡し役を担っており、器官と自然物の接続によって調和の精神を肉体的に感じられるところにある。
あえて低俗な例えをするなら、なにかでキマった時の「すべて理解〈わか〉った」感がなんの副作用もなく得られるようなものだろうか。その超常的な感覚の先にエイワの存在を認めたのかもしれない。万物との橋渡しが行えるなら能力的には神と呼んでも差し支えなく、敵味方関係なくナヴィ全員でキマっていたら争う気など起きなくなるのも道理だ。死者と対話できるのも遺体を土に還すことで人格データを惑星に保存し、エイワを通じてそれを引き出しているのではないかと推測できる。
実はネイティブアメリカンも部族間の争いを調停する際に、お互いに薬草をキメて和平を結んでいた歴史があり、吸引方法からこれは後にピースパイプと呼ばれている。本シリーズの多くに新大陸入植絡みのエピソードが入り込んでいるところを見ると、こういった部分もあながち深読みとは言い切れない気がしている。
ところが、入植者はピースパイプをキメないし、地球人は器官を持たないので自然と繋がることもできない。調和を学ぶ手段を持たない彼らに対してエイワはなにもできない。敵対部族がエイワに見切りをつけたのも、自然災害や飢饉といった具体的な苦しみから救ってくれなかったからだ。
それでも主人公たちは窮まった戦況の中でエイワに助けを求め、最終的には複数人が同時に接続する形で調和世界の奥底に到達、ついにエイワの実体と相まみえることに成功したのだった。エイワとの対話を経て、主人公の娘は神の力を借りて万物を自在に操作する能力を得た。前述した通り、彼女の殺戮の叫びによりすべての動植物が地球人の抹殺に動き出し、形成逆転に成功した。
物語の展開は特に不自然ではない。強力な地球の軍隊をしのぐにはそれくらいの力がないと勝敗に説得力が出ないだろうし、映像的にも巨大な魚たちが容赦なく地球人を屠っていくシーンには迫力があった。しかし、エイワの実体として描かれていた姿が一人の巨大なヒトの顔で、これまで壮大に描いてきたアミニズム信仰が一神教的な全能性に回収されているのは、多神教の地に住む人間にとってはいささか物足りなさが残った。
本シリーズが参考にしたとされる作品の一つに『もののけ姫』があるが、あの作品に登場するシシ神は多神教的な神の好例と言える。身体は鹿だが顔は猿、猫に似た耳を持ち、神自身が自然に帰依している様子が見て取れる。シシ神は数多いる神々の一柱でしかなく、生殺与奪を司る生命の神であることから高位と見なされてはいるが、絶対的な存在ではない。
そもそも作中では自我があるかどうかさえ明確ではない。他の神々をもってしても対話は行えないとされ、いかなる腹づもりで生命を与えたり奪ったりしているのか誰にも理解できない。類まれな力から便宜的に神と呼ばれていても、実際には万物の生死が表象化した概念に近い存在なのかもしれない。すなわちシシ神自身も自然と一体であり、独立して操作介入を行う主体ではないと考えられる。
対してエイワは積極的に裁定を行わない点では従来の一神教から離れているが、結局のところ自然に独自の優越性を持ち、現に一方的な操作介入を行っており、その権限を任意の誰かに割譲さえできる点において、やはり一神教的な価値観に根ざした階層構造の匂いがしてしまう。ファンクショナブルな風が吹いている。最終的な結末は地球人皆殺しで良くとも、その過程の描き方はもっと脱西洋化を図れたのではないかと思う。
環境保護について

前作に引き続き今作でも捕鯨シーンが旺盛に扱われている。捕鯨国に住むクジラ食べまくりの民からすると微妙な気持ちにならざるをえないが、捕鯨用の道具に漢字が記されていたり、アジア系の脇役が登場している部分を除けば、一連の場面は近代における西洋人の捕鯨を戒めるシーンと思われる。
というのも、前作でわざわざ悪役に「貴重な価値がある体液だけを取って肉は捨てる」と明言させていたり、今作ではほぼ害獣駆除を兼ねる勢いで屠殺を試みる姿が徹底して描かれているからだ。どこをどう切り取ってもこれは伝統的な捕鯨国の文化とはかけ離れている。なにも日本に限った話ではなく、ノルウェーやアイスランドなど北欧の捕鯨国とも異なる。
逆に、かつて18世紀から19世紀にかけてイギリスやアメリカが行っていた「鯨油のみを搾り取って他は捨てる」形式の捕鯨とはとてもよく似ている。ナヴィとて草食の種族ではないので、もし村一つを飢えから救うためにクジラ一頭を無駄なく使い切っていたら、それはそれで生命サイクルの一つの形だと認めたのではないか。
つまり、本シリーズで非難の対象となっているのは捕鯨それ自体ではなく自然の調和を壊しかねない乱獲、環境破壊であり、これ自体は我々もウナギやサンマの事例に照らし合わせれば十分に内省すべきテーマだ。短期的な利益のために十分に育ちきっていない幼体までも獲りつくし、売れ残るたびに捨ててしまっていたら最終的に困るのは我々自身なのだ。環境保護活動家でなくてもメシのおかずが将来一つ減るかもしれないと知ったら平気ではいられない。
とはいえ、ジェームズ・キャメロン監督自身がクジラに相当な愛着を寄せているのは、まあ間違いない。本シリーズのクジラはあくまでクジラに似た宇宙生物であって地球のクジラそのものではないが、しきりに知能や共感能力の高さに言及していたり、こうして作中の固有名を一切出さなくても観た人には通じるくらい姿かたちが似ているところからも、クジラをただの動物以上に扱いたがっているのは明らかだ。
なにしろ彼はオフの期間にはひたすらスキューバダイビングを楽しむ生粋の海好き、日がな一日潜りまくりの海狂いである。前作、今作と長尺でたっぷり盛り込まれた執拗なまでの海へのこだわり、異常すぎるほど真に迫った映像美も、ひとえに彼自身の体験から導き出されているのは疑いがない。ダイビング中にクジラと出会って愛情を育んだ経験があるのかもしれない。同様の経験を犬とした人は飢えても犬は食べないだろうし、競馬関係者には馬を食べない人が多い。
個人的には動物に序列を設ける方がかえって傲慢な気がしなくもないし、知能や共感性が相対的に高いから食べないのも能力主義に立脚していてちょっとおっかないと感じるが、こればかりは話を作った人間がそう思うのだから、話の上ではそうなのだろうと割り切るしかない。幸いにもアバターシリーズという作品を評価する上では、強いて注目しなくても成立する範疇に収まっていると思われる。
総評
巷では本シリーズは映像に極振りした中身の薄い作品と評されていることが多い。だが、本稿のように筋道を追っていけば、ジェームズ・キャメロン監督の思想性が良くも悪くも前面に打ち出された意欲作と認識できるはずだ。計3作の超長尺を経て、入植者による侵略、環境破壊、内戦への介入とこれまで西洋諸国が犯してきた罪を暴き出す形で、段階的にではあるが典型的な白人酋長ものから脱皮しつつあると感じている。
もちろん課題は残されている。ナヴィへの帰属を選んだ主人公ことジェイクは、一見現地に馴染んでいてもまだどこか地球人を捨てきれていないところがある。普段はナヴィたちと一緒でも危機が迫ればあっさり文明の利器に頼る行動や、子どもの命のためとはいえ地球人の医療チームを機械ごとヘリで呼びつける態度は、真に帰依しているとは言いがたい。いつか作中で総括が図られると良い。
続く第4作の展開は不明だが、最終作はナヴィが地球に行く話になるらしい。まさかナヴィが恒星間航行技術を手に入れるとは思えず、おそらく地球の技術を用いるのだろうが、ともあれこの話の行く末がどう決着を迎えるのか楽しみにしている。本シリーズが映画史に対して負っている責任は極めて大きい。
過去のハリウッド映画が描いてきた上辺ばかりの内省に区切りをつけ、エンターテイメント性と批評性を両立した偉大なサーガに成長できるかは後に続く2作にかかっている。銃夢の映像化はもうやらなくていいからどうかアバターに集中してほしい。