2026/06/13

まだ麺にチャーハンを付けられる

とにかく腹が減っていた。若い頃はなにも考えずに味の濃い一品料理を大盛りにしていた。丼物を特盛にする、ラーメンを大盛りにする、二郎に行く。ところが、三十路を過ぎてからはそういうことができなくなった。食べ進めている途中で味の濃さに圧倒される。量に勝てても味に負ける。家系ラーメンは好物だが、並盛以上にしようとは思わない。

しかし空腹である。とことん腹がすいている時、好きな料理を一人前ぶんだけ食べても欲求は満たされない。実際的に胃袋に食物を詰め込む必要がある。一定のリズムで箸を、スプーンを、往復させ続ける責務がある。そんな時、僕は町中華に行く。なにも特別な店ではない。自宅の近く、駅の高架下、店先にフードサンプルが飾ってあるような、ごくありふれた店だ。

席に着くと色褪せたメニュー表に目をやる。ほとんどろくに中身を読まず、タンメンとチャーハンを注文する。大抵の場合、麺はタンメンが望ましい。具が豊富で塩気が利いている割に食べやすい。なにより町中華にタンメンがないわけがない。容赦なくフルサイズの麺と飯を注文した僕に、店員が親切にメニューの組み合わせを提案してくれる。だが、僕が求めているのは半チャーハンでも半ラーメンでもない。セットに含まれる気の利いた小皿もいらない。

果たして数分も経つと眼前にタンメンとチャーハンが運ばれてくる。神速の手さばきだ。町中華の調理プロセスは遍く人々の胃袋を満たすべく徹底的に効率化されている。店員の熟練した技量に尊敬の念を抱きつつ、まずはタンメンのスープを一口飲む。深い安心感を得る。次に麺をすする。納得の歯触りに満足する。おそらくスーパーでも手に入りそうな典型的な中華麺だが、茹で加減が絶妙でしゃっきりしている。本来、麺は適切に茹でられているだけで十分にうまい。

続いてチャーハンに手を伸ばす。米は正しくパラリとしている。一時期、しっとり系のチャーハンが流行っていたが、個人的にはやはりパラリとしていてほしい。必ずしも味の問題ではない。のど越しがよく食べやすいからだ。口に含んだ途端、化学調味料の弾ける旨味が味蕾に浸透する。町中華のチャーハンはこれでいい。むしろ、こうでないといけない。頭を使って食べるものではない。

次第に望まれていたリズムが整ってくる。スープを飲む、麺をすする、チャーハンを食べる。あたかも円環の輪のように完成された構造体が、ただひたすら僕の空腹を満たすために輪転している。二郎ほど急かされていない、定食ほど落ち着いていない。ジョギングのごとく足るを知った調子で箸とスプーンがぐるぐると交差し続ける。

途中、タンメンに卓上の胡椒を投入する。穏やかなスープの味に一抹の刺激が追加される。僕は麺類に後から調味料を加えることはめったにない。家系ラーメンもそのまま食べる。だが、タンメンに胡椒には世界観への忠義がある。東京の六月は暑く、町中華の限られた冷房設備では払いきれない熱気が僕を包み込む。たまらず汗が噴き出してくる。それでも濃すぎも薄すぎもしないオーソドックスな味わいに、なぜだか心身が守られていると感じる。

気づくと眼前のタンメンとチャーハンはすっかり消え失せていた。一品あたりに八百円足らずの料金を支払って店を出ると、梅雨時の湿った外気が身体に覆いかぶさってくる。汗は止まらない。胃袋には先ほどの麺と飯がぎっしり詰まっている。僕は特段の高揚を覚えず、ただ満ち足りていた。まだ麺にチャーハンを付けられる。

©2011 辻谷陸王 | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説