2023/04/07

選挙カーは無気力な僕らの代償

僕が住むマンションの一室は二車線道路に面している。窓を覗くと中学校の校庭が一望できて、歩道は街路樹の占有部分を差し引いてもだいぶ広い。別に立地環境を自慢しているわけではない。これが選挙カーにとっていかにうってつけかを説明している。今は統一地方選挙の真っ最中だ。

住宅地なのに二車線道路が通っているおかげで選挙カーをゆっくり走らせても邪魔になりにくく、歩道が広いため往来者も多い。最寄り駅にもほぼ地続きだ。拡声器でもってアンプリファイアされた大音声はマンションの各部屋に届くのみならず、未来の有権者が集う学校にまでも行き渡る。こんな理想的な場所で選挙カーを走らせない手はない。そんなわけで在宅勤務者の僕は、ここのところ日がな一日彼ら彼女らの声を聞かされている。

それにしても選挙カーの街宣というのはいつ聞いても代わり映えがしない。街宣と形容するのも少々、いや、かなりおこがましい。どんな候補者もしゃべっている内容といえば「政党名、候補者名、応援の要請または感謝」の反復詠唱に過ぎない。この問題は紀元前3000年頃にはすでに指摘されていて、なんでも古墳の壁画には選挙カーに耳をふさぐ人々の様子が描かれているらしい。

しかしそれほどの太古から不評を買い続けている選挙カーが、今もなお征夷大将軍の支持を受けている厳然たる事実がある。さもなければ騒音に堪忍袋の緒が切れた近隣住民に鍬や鋤で追い立てられて早晩血を見るに違いない。人々に嫌われていてもかくのごとく健在なのは強固な権力を笠に着ているとしか考えられず、すなわち征夷大将軍に支持されているとの見立てが道理だ。

だが、あえてこれに反駁してみようと思う。もしかして実は選挙カーの街宣って大して嫌われていないんじゃないのか。というか、むしろ需要があるんじゃないのか。こう考えると紀元前3000年とか征夷大将軍といったややこしい考証を持ち出す必要がなくなり、話の筋道がいきおい整然となる。つまり「選挙カーは有権者に支持されているから今も続いている」と推論できる。

とはいえなかなか首肯しがたい推論だ。誰に訊ねても選挙カーの印象はすこぶる悪い。さながら万死に値する不倶戴天の仇敵の扱いである。中には「選挙カーを使う候補者には投票しない」と豪語する猛者も珍しくない。ただでさえ限られた投票先を前もって絞るとは、討ち入りの侍にも似た潔さで誠に恐れ入る。

僕は前述した通り街宣の声が届きやすい立地に住んでいるのでよく解るのだが、選挙カーを使わない候補者なんてめったに見ない。きっちりほぼ全員が選挙カーで街宣しに来ている。どこにも一度も現れない候補者はそもそも選挙活動を実質放棄した酔狂な泡沫候補というのが相場だ。

したがって「選挙カーを使う候補者には投票しない」と主張する人は泡沫候補か棄権の二択に自ら選択肢を狭めているわけで、まさしく侍の潔さと称えずにはいられない。僕はそんな割り切った考え方は到底できそうにない。たとえ選挙カーを使わない唯一の候補者がものすごい陰謀論者でも、きっと彼らは腹をくくって投票するのだろう。侍の生き様は辛く険しい。

さらにワイルドなのは「選挙カーの声がうるさい候補者には投票しない」とする投票行動だ。もはや侍も恐れ慄く、密林を駆け巡る野伏の豪胆さに等しい。なにしろ声がうるさいかどうかはその人の居る場所や位置関係、時間帯、候補者の巡回ルートに左右される。半ば運ゲーだ。荒くれ者の野伏は運に身を賭すことを厭わない。

選挙カーの声をたまたま聞かなかった場合でも、他の場所では派手に街宣をやっているかもしれないし、当選したら街宣の効果大いにありと見込んで次の選挙では自分の近所でやるかもしれない。にも拘らず、根本的な改善とは無関係に一か八かで投票先を定めているのだから、ワイルドの権化と言い表しても過言ではない。ついでに夕飯のおかずも獲ってきてくれないか。

だが、ここでもあえて反駁を試みようと思う。もしかして実はその場の勢いで放言をかましているだけなんじゃないのか。なんだかんだ言いつつも当日は全然違う投票行動を採っているんじゃないのか。こう考えると侍とか野伏といったややこしい考証を持ち出す必要がなくなり、話の筋道がいきおい整然となる。つまり「考える前にしゃべる人もいる」と推論できる。でも有名人やインフルエンサーがそういう真似をして国民の投票行動を混乱させるのは普通に勘弁してほしいな。

選挙カーがうるさいのは当たり前だ。僕ら日本国民は平均すると候補者の政治信条や政策を調べるほどマメではなく、政治活動に参画して党員や市民団体と日常で繋がりを持つほど行動的でもない。さりとて我が国が民主主義国家である以上は選挙で代表を決めなければならないし、無気力で無関心な国民にも投票してもらわないと当選できない。

となれば、これはもう「政党名、候補者名、応援の要請または感謝」の連呼が法律で許された最高効率の戦略なのは言うまでもない。侍でも野伏でも人間は概して聞き慣れた名前、見慣れた顔に親しみを持つように作られている。平均してモチベに欠けた国民にモチベに満ちた選挙戦略は響かない。人間の性質を刺激する方が手っ取り早い。選挙カーは無気力な僕らの代償なのだ。

もし日本国民が平均して政治に意欲的だったなら、選挙活動はどこかの場所を借りて演説を行う形が主流になるだろう。有権者と候補者の関係はより対話的に変わり、いたずらにがなりたてる選挙カーの需要はおのずと退潮する。ところが現実はそうではない。外出もインターネットもテレビさえも要らず最低限の情報をくれる選挙カーは、日本国民の等身大の姿を正しく反映している。

こういう現状を覆したくば日々積極的に自他を政治的に律しなければならないのだが、ぶっちゃけするのもされるのも面倒で仕方がない。選挙カーに文句を垂れつつ脈絡のない投票をするか棄権して捨て鉢になり、選ばれた議員にもなお文句を垂れる。政党の支援活動に勤しむ立派な人々には、なぜだかつい冷めた視線を向けてしまう。昨今の政治状況はいかにも僕らの程度にふさわしい。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Fediverse | Bluesky | Keyoxide | RSS | 小説