2023/05/28

擬制としての個人主義

先日、立てこもり殺人事件が発生した。4名の死者のうち2名は猟銃で射殺されている。めったにない凶悪犯罪だが、猟銃を所持している点から世捨て人の犯行とは考えにくい。安定した社会的身分でなければ所有の許可が下りないからだ。事実、蓋を開けてみると犯人は市議会議長の息子だという。

さて、市議会議員は国政と比べるといささか印象の薄さは否めないとはいえれっきとした政治家である。政治家の息子が巻き起こすスキャンダルには大小あれど、今回の件はこれ以上ない大事件と言える。大方の予想通り、市議会議長は議員辞職を余儀なくされることとなった。はて、おかしい話だ。我々は個人主義の発達した先進社会に生きているのではなかったか?

件の犯人は30代の成熟した大人だ。子供でもなければ成年被後見人(旧禁治産者)でもない。したがって、個人主義的な見地では市議会議長とその息子はそれぞれ独立した人間と見なされなければならない。この二者は互いに責任を負わなくていいはずだ。あるとすれば民法上の扶養義務ぐらいだ。

だが現実として市議会議長は責任を負っており、今後も負わされ続ける人生となる。もし当人が「私がやったわけではないので知りません」と突き放せば有権者たちは正気を疑うだろう。あるいは全身全霊の謝罪を伴っても「でもやめません」などと後に続けば、間違いなく次の選挙で落選する。どう転んでも市議会議長は地位を追われるしかない。

あえてすっとぼけたまま繰り返すと、やはりおかしい話だ。息子が猟銃で何人殺そうが別に市議会議長の職務遂行能力とはなんの関係もない。我々が個人主義を肯定するかぎり、少なくとも彼が「私がやったわけではないので知りません」と言った時には、それを是認しなければ道理が合わないことになる。しかし実際、我々はそのようなトレードオフを決して認めない。

かつての集団主義では、個人の利益と責任は個人のみならず一族、友人、果ては隣近所にまで及んだ。これは第三次産業の未発達から個々人よりも共同体が重要視されていたために、共助と秩序を志向した仕組みと考えられる。この体制下では連帯責任と引き換えに自己責任は希薄化される。

翻って現在の高度な情報化社会では、突出した一人の生産性が並の百人に匹敵する場合が少なくない。こうした社会では優れた個人の能力をいたずらに損ねない体制の方が俄然重要になってくる。かくしておのずと個人を”尊重”する社会が再構築され、なんとなしに我々もその恩恵に与る形と相成ったのである。

我々の憲法はすでにこれらの概念を包摂していたが、実社会が受け入れはじめたのは平成以降と見られる。なにしろ昭和の時代における「個人主義者」とは原義通りの意味ではなく「自分勝手でわがままなやつ」との痛罵をアイロニックに言い換えた代物だったのだ。この用法は自民党支持者であっても社会党支持者であっても割によく使われていた。

このように、我々が愛してやまない個人主義は一人ひとりの生産性が絶えず問われる現代社会の要請に伴って追認されたものであって、額面通りの個人主義を鵜呑みにしている者はそう多くはいない。ゆえに一族の不祥事は常に懸念されうる。ふとした拍子に封印されし集団主義が顔を覗かせるのだ。

とすると、我々は本音では個人主義を拒絶しているのだろうか。個人主義を捨てて、古き良き昭和に回帰しようと叫んだらみんな拍手喝采で支持してくれるだろうか。むろん、そんな兆候はどの世論調査にも表れていない。我々は頭からどっぷりと個人主義の恩恵に浴している。にも拘らず、その反例は枚挙に暇がない。

というのも、僕自身も個人主義者でありながら、前述したような事例で個人主義的判断を貫徹できない場合が多いからだ。純粋に個人主義に拠った時、市議会議長が「私がやったわけではない」と開き直ってなにがいけないのか。残念ながらこの問いの答えはない。答えが解っていたら悩んでいない。

一つ解っているのは、この矛盾は昭和の集団主義とは少々異なりグラデーションがありそうなことだ。もし市議会議長ではなく私企業の重役だったら、辞職すべき道理はないと判断できるかもしれない。重役ではなく一社員だったなら、なおさらそう考える余地が大きい。罪を犯したのが親で、地位を追われるのが子や孫だったなら、そもそもこんな齟齬は生じなかっただろう。

確かに物事には程度問題がある。根っからの資本主義者であっても時には社会主義的政策を取り入れるし、逆もまた然りだ。正気を保っているうちは左翼も右翼ももう片方の言説を完全には否定しない。だが、ある時は個人の独立と自由を認めて、別のある時は責任の所在を他に求めるなどという態度が程度問題で通用するとは思えない。

結局、僕は個人の独立を信じているようでいて、ほとんどの場合には各々の個人が親から与えられた遺伝子と教育を複合した姿でしかないことを知っている。個人の人格や能力が、橋の下に放逐されていたら発達しなかったであろうことを知っている。周囲の人間関係から得た感性に価値判断が左右されることを知っている。実のところ、僕は便宜的にしか個人を認めていないのである。

つまり現状、僕の個人主義はロマンや憧憬に依拠しただけの、擬制としての個人主義に過ぎないらしい。いつか憧れを体現させて万事を個人に帰責して考えられるようになれたらいい。はたまた、潔く集団主義に殉じて実態なきロマンを捨て去る日が訪れてもいい。僕ははっきり生きたいのに、しかし今はどうにも荷が重い。市議会議長辞職の報せを受けて、そんな想いが胸中に去来した。

©2011 辻谷陸王 | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説