2023/06/19

さようなら、いままで絵文字リアクションをありがとう

どうやら僕にとって絵文字リアクションは過ぎた代物でしかなかったらしい。もうすぐそれが通用しない場所に出戻ってしまうけれど、かつて僕の投稿を可愛いアイコンで彩ってくれた人々に感謝の意を表したい。なにしろこれから絵文字リアクションをぶっ叩く持論を展開するので、まずそう言っておかなければならない。

AP実装で初めて絵文字リアクションに触れた場所は言わずもがな、Misskeyの旗艦インスタンスであるmisskey.ioだった。当時、絵文字リアクションがもたらす広範な表現様式に魅了されたのは確かであったし、ioのデータ消失事件をきっかけに移住を余儀なくされた後も「絵文字リアクション対応」は僕の中で常に一定のプライオリティを保っていた。

絵文字リアクションはハートやスターでは表しきれない多様な文脈をアイコン一つで伝達することができる。なにかと直接リプライを送り合う気勢に乏しい我々の文化圏においてこれは、まさに革命的な機能であったと言っても過言ではない。様々な問題を抱えつつもmisskey.ioがFediverseの世界で強力な存在感を発揮しているのは、この絵文字リアクションによるところが大きい。

というのも、Fediverse上のユーザ人口でいえばmisskey.ioは国内トップではない。一番手にはpawoo.netがおり、二番手にもmstdn.jpがいる。後者の方でさえ総人口はioの約2倍だ。にも拘らず、これらのインスタンスと比べてもより多くの耳目を集めているのは、やはり絵文字リアクションの視覚表現が物を言っているのだと考えられる。与謝野晶子はさすがにもう飽きられたかもしれないが、今はきっと僕の知らない別のミームが流行っているのだろう。

しかし、これこそが絵文字リアクション文化の最大の利点で、かつ欠点と言える。ハートやスターはいくぶん地味でも表現形としては堅牢で「ハートやスターを送られることに飽きる」などという事態はSNSそのものに飽きないかぎりは起こりえない。それしかなければそれが唯一の表現様式に収まるからだ。13年以上Twitterをやっていても、相変わらずいいねは嬉しい。

他方、絵文字リアクションは選択肢である。日々、増大するリストから投稿内容に合わせてどれかが選ばれる。流行りのミームに依存するリアクションは賞味期限が短い。先月には爆笑できたものも先週は薄笑いに留まり、いつしかちょっと胸焼けを覚えはじめる。受け手がこうなら送り手も空気を読む。結果、たとえ候補が100あろうと1000あろうと使い慣れたうちのいくつかが「無難な選択肢」として使い回されることになる。

定型句に定型句で応酬するインターネットに毒されたコミュニケーションのように、朝の挨拶には:ohayo:を送り合い、なにかをしたら:igyo:を送り合う。そもそも自分で選ぶ手間さえいらないかもしれない。この手のはどうせ誰かがすでに貼りつけているので、便乗してボタンを押すだけで済む。タイムラインに流れる投稿はだいたいどれも一様に:igyo:だ。

このようにして安易に擦られ続けた:igyo:はもはや大して偉業でもなんでもなく、早晩に互助的ないいねと同等かそれ以上にぞんざいな印象を受けるようになるだろう。ハートかスターしか送れないのならともかく、100も1000も他にリアクションがあるのに反応が使い回されているという認識が印象をより退屈にさせる。

一方で、うまく人々の注目を集めた一部のユーザには惜しみなくリアクションが付与され、あるいはその人自身が新しいミームを創出する特別な存在と化す。リッチな視覚表現は時に1000のいいねと100のいいねよりもえげつない格差を人々に見せつける。すると自分にあてがわれる機械的なそれはいよいよみすぼらしく映り、リアクション目当ての奇異な振る舞いや大量の再投稿が悪目立ちして、白けたユーザから順にインスタンスを抜けていく。加速しすぎたコミュニティはえてして長続きしない。

かといって中小規模のインスタンスに逃げても課題は残る。LTLの流れが緩やかであったりテーマが予め定められていることが多いこれらのインスタンスでは、落ち着いた会話を行える言論環境が暗黙に望まれている。5秒で投稿を読んで2秒後には:igyo:を送るリアクションシューティングとは異なり、一つ一つの投稿をじっくりと捉える向きが各々に期待されているのだ。

しかし、一つのアイコンで多くの文脈を伝えられる絵文字リアクションがまたしてもそれを妨げる。本来ならリプライなどで自分なりの見解を表明すべきところを、人々はついリアクションに代理させてしまう。基本的な承認としての機能しか持たないハートやスターでは起こりにくい問題が絵文字リアクションではかくも避けがたい。表現力が豊かすぎる絵文字リアクションによって、真に求められている文章表現がスポイルされているのである。

一連の問題点はコミュニケーションが攻撃的な形態に移行するといっそう邪悪な様相を帯びはじめる。通常なら悪くても引用か空リプで批判を投げつけられる程度だが、絵文字リアクションが有効なインスタンスでは片方に罵詈雑言の意匠が10も20も集まり、もう片方には称賛が寄せられるといった、もはや内容に関係なく薄気味悪い状況がグロテスクに可視化されることとなる。

クソリプはクソなりに言い返せてもクソリアクションをつけてきただけの相手には手も足も出ない。だが、投稿に貼りつけられた大量の罵倒リアクションは野次馬たちを着実に調子付かせ、さらなる攻撃を盛んに呼び込み続ける。殊にインスタンスをまたぐ対立では身内意識が拍車をかけるのか、動員に長ける巨大インスタンスの集団が中小規模インスタンスのユーザをいじめる事例が幾度となく観測されている。可視化しなくていいものまでもが過剰に可視化されている。

つまり、絵文字リアクションは我々に豊かな表現力を提供しているようでいて、実際にはもっと上手に言い表せたかもしれないなにかを削ぎ落とし、逆にもっと穏当に済ませられたかもしれないなにかを増幅せしめている。DiscordやSlackと違って各自がそれぞれのタイムラインを持つSNSにおいてこれは、実用性や可読性と引き換えにするには分の悪いトレードだと僕は考える。

結局のところ、僕が志向するコミュニケーションとはなにがしかの文章表現に根ざすものだったらしい。引用だろうと空リプだろうと自分なりの見解を書き記した文章によって始まり、無責任な他人の横槍や双方のインフルエンスに左右されない形が好ましい。そこへいくと、絵文字リアクションを前提としたSNSの在り方はいささか負の側面が強すぎると評せざるをえない。

関連する実装系の将来にも暗雲が立ち込めている。CalckeyはMisskeyよりも洗練された開発方針で堅実に修正を重ねているが、対してMetaが開発しているAP実装のSNSはほぼ間違いなく絵文字リアクションを受けつけないだろう。どんなに頑張ってもじきにFediverseへ訪れるであろう世界ン億人のユーザは、あらゆるリアクションを一切見てくれないのだ。

以上の理由から、僕は絵文字リアクションの文化圏から遠ざかることにした。リアクション自体が目に留まらなければひとまず書かれた文面に集中できるし、MetaのAP実装と長期的に渡り合えるのはおそらくMastodonぐらいしかない。今しがた引っ越しが完了して僕のFediverse上のアカウントは Vivaldi Socialに統合された。 追記:ソロインスタンスを建てた。

あれこれ言っても僕が好きなのは、:igyo:よりもblobcatよりも皆さんの文章だった。さようなら、いままで絵文字リアクションをありがとう。これからはそのどれもがスターに変換されてしまうけれど、今後ともよろしく。

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