2024/03/10

主食を栄養源にする

過去記事を読み返すと3年前にこういう記事を書いていた。あれから僕の食生活はさらに改善が進み、ついに食卓から白米を放逐せしめるまでに至った。白米を――放逐する――日本の食生活に慣れ親しんだ人間がそんな大それたことを言い出すと、いかにも鼻持ちならない健康志向のロハスだが、僕にとって問題なのは単純な健康の良し悪しではない。

たとえば僕は二郎が好きだ。あの、ラーメン二郎である。グルテンフリーのロハスどもが全員裸足で逃げ出して、ひと汗かいて家に帰るようなおぞましいジャンクフードだ。曲がりなりにも健康に気を遣う人間が口にすべき食べ物では決してない。ところが、僕はこれを月に最低2回は食べている。他にも揚げ物だって食べているし、手間暇をかけて身体に悪そうなメニューも色々と作っている。

だが僕はそれ以外ではロハスどもと肩を組んで仲良く並走している。毎日食べる弁当は脂身の少ないタンパク質と歯ごたえのある根菜が中心で、わざわざ作り置きしている。毎日、カロリーと栄養素を勘案してあすけんの女にまずまずの得点をもらっている。一日の終わりには輸入もののマルチビタミン剤も飲んでいる。

そしてなにより、極めつけは主食だ。僕は麦と雑穀を混ぜた名称不明の米を食べている。実際、これをなんて呼べばいいのか分からない。ともかく、家で白米のみを食べる機会はまずない。なぜなら白米はすさまじく純粋なカロリー源である。日がな一日中、鍬を、ツルハシを、上げ下ろししている農夫や炭鉱夫の身を助けても、机の前で指先を駆動させているだけの我々には過ぎた代物でしかない。

二郎や揚げ物もそういう意味では同じ――しかし、これには強い娯楽性がある。元より健康を代価に一時の快楽を追求するものに対して、主食とは文字通り主とする食であり我々の肉体を象る主要な要素と言える。ならば快楽は快楽、栄養は栄養として普段は分別を働かせた方が効率的に違いない。そうすれば、我々はより持続的に快楽を追求できる。

この決断に大きく貢献を果たしたのがロウカット玄米の存在である。よく知られている通り、玄米は……正直に言って、あまり美味しくはない。その昔、玄米に代わり白米食が普及した江戸ではビタミンB1の欠乏による脚気が大流行したという。今よりもはるかに貧しい食生活を送っていた江戸町人でさえ、白米ばかり食べたがるほどに玄米は食べづらい。現代人で常食している人は相当すごい。

かくいう僕も玄米食への挑戦は初めてではなかった。様々な炊き方を試し、試行錯誤を重ねてもあの独特の匂いとモサモサした食感はどうにも受け入れがたい。そのたびにいつもの白米と麦と雑穀の鉄板構成に舞い戻り、まあこれでもいいか、と妥協に甘んじてきた。そこへやってきたのが、まさしくこのロウカット玄米なのだ。

ロウカット玄米はロウ層と呼ばれる表皮部分のみが取り除かれている。これにより食感や味わいが大幅に改善されているにも拘らず、栄養素の欠落がかなり抑えられている。白米比で食物繊維は8倍以上、ビタミンB1は10倍以上、一方でカロリーと糖質はそれぞれ約30%以下、という極めて優れた特徴を持つ。

これに麦と雑穀を加えて炊いた名称不明の米バージョン2は、漫然と口に運ぶ主食でありながら僕をひとりでに健康体へと導いてくれる。あたかもロハスどもの横を寝そべりながらベルトコンベアに運ばれて並走している気分――え? やつらはとっくに玄米を食べていてあれは自主トレーニングだって? あ、そうなの……。僕ももっと頑張らなきゃな……。

いずれにせよ、これこそが僕の目指している食生活の新しい雛形だ。いくら健康に良さそうなヘルシーフードを口にしていても、単なる気まぐれなら大した意味はない。いくら健康に気を遣ってラーメンや揚げ物を控えていても、そんな修行僧じみた生活に彩りはない。

たとえばこのように、見るからに身体に悪そうな揚げ物を食べていても、手前にそれとなく映り込んでいるパーフェクトな主食が僕に栄養素を供給してくれる。主食はありとあらゆる食事に入り込んでくるゆえ、もはや僕は食物繊維とビタミンB1には困りようがない。兎にも角にも苦労しないことは継続の近道だ。ロウカット玄米、おいしいよ。

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