特に読まなくてもいい三文小説 かつては高層ビルの一部だったと思われるその地下階には、わずかながら備蓄食糧が残っていた。きっと以前は大量に用意されていたのだろう。私は手持ちの雑嚢に二、三個ばかりの缶詰を押し込み、急ぎ地上に帰還した。食糧がありそうな場所には賊が現れやすい。いざとなればこの肩に回した小銃――の模型――しかも廃材を組み合わせて作ったガラクタ――にものを言わせる手もあるが、向こうの頭数次第ではそれも通用しなくなる。被弾覚悟で襲ってくる恐れが否めないからだ。そして万が一、模型とバレた暁には――
私は倒壊した複数のビルによって形成された裏道を歩きながら、ひとり身震いした。
西暦2037年。未曾有の大災害から十余年経つ。生活のほとんどを電子やギアの運動から成る産物に依存していた私たちの世界は速やかに崩壊した。当時の私はプログラマを志す学生だったが、もうその夢が叶うことはない。日々、生きるための糧を探してさまよい歩くだけの些末な人生だ。
様々な地下施設を巡る過程で稀にコンピュータの残骸を見かける時があっても、もはや私の心は微動だにしない。いま私がもっとも欲しいのは確実に腹と脳髄を満たしてくれる糖分……一枚の板チョコでもあれば、他にはなにもいらない。
「ちょっとそこのお若いの、待たれよ」
突然、視界の外から話しかけられて私はとっさに模型の小銃を構えた。銃口の先には灰色のフードを深くかぶり、背をひどく曲げた老人が佇んでいた。
「おう、おう、そんな野蛮なのは下ろしなされ。わしはただの行商人。物々交換をしながら旅をしちょる」
老人は異様に膨らんだ外套の懐を手のひらで軽く叩いた。
「交換できるものなんてなにも持っていない」
私は小銃を構えたまま冷たく告げた。
「いや、わしは見とった。さっき地下から戻ってきたばかりじゃろ。なにか食糧があれば――」
「ないと言ったらない」
私は繰り返し即答して後ずさった。このご時世に食糧と引き換えたいものなどあるわけがない。
「話は最後まで聞きなされ。……では、これはどうかな?」
私の目は限界まで大きく見開かれた。模型の小銃が手からおのずとこぼれ落ち、スリングベルトに頼って腰のあたりでぶらぶらと揺れた。
眼前の老人の手に握られていたのは、まさしく私が欲していた板チョコだった。
「……なにと交換したい」
フードに顔の大半が隠されていても老人が笑みを作ったのが判った。
「缶詰一個。乾パンだとありがたい」
ぐううっ……高い……いくらなんでも……乾パンの缶詰一個なら丸二日は空腹をしのげる……いや、しかし……だが……。
「……無理だ。その条件では……」
私は全身が発する糖分の欲求になんとか打ち勝った。うまく食糧を見つけられず餓死寸前の状態で危険地帯を歩き回っていた頃を思い出せば、とてもじゃないが缶詰とは交換できない。
「そうか、では残念じゃが……またの縁があれば」
老人は板チョコを懐にしまい、フードをさらに深くかぶり直して踵を返した。ああ、チョコレートが遠のいていく……。
「おっと、忘れとった」
十歩ほどいったところで、急に老人が振り返った。
「これは会う人みんなに聞いとるんじゃが――おぬし、これがなんだか分かるかの」
一瞬、老人が懐から再び板チョコを取り出したように見えたので、私は馬鹿にされているのかと思って怒りだしそうになった。しかしよく見るとそれは長方形ではなく正方形に近い、樹脂製らしき硬質な物体だった。しばし考え込んだものの、ほどなくして答えに思い当たるとひどくがっかりした。少なくとも食べ物ではないからだ。
「……フロッピーディスクだ。それは」
今度は老人の目が見開かれる番だったらしい。老人は深くかぶったフードを自らの手でがばっと剥ぎ取り、その萎びた白い頭髪を露わにした。
「フロッ……ピーというのか? これは? おぬし、これがどういうものか分かるのか?」
「ああ……分かる。私が生まれる前によく使われていたんだが……あー、なんと言えば……要するに、情報を保存するためのものだ。どうせ今は壊れている」
いや、本当に壊れているか?
保存状態さえ良ければ、磁気メディアなら十年くらい持つ可能性は、ある。
「……板チョコをやる。缶詰はいらん」
どういう風の吹き回しか、老人は本物の板チョコを取り出して近づいてきた。歩きながら、老人は話を続けた。
「代わりに……このフロッピーとやらを……持っていけ。それが条件じゃ」
「そんなのを持っていてなんになるんだ? 中身も分からないし、確かめようもない」
「今すぐでなくてもいい。いつか、きっと救いに――人類の救いになると、これをくれた人が言っとった」
ついに老人は私の間近まで迫り、チョコレートとフロッピーディスクを半ば押しつけるようにして手渡してきた。渡し終えると、老人はすぐに立ち去った。その身のこなしの軽さからは、まるで生涯の仕事をやり遂げたとでも言いたげな清々しさが感じられた。
私は手元に残されたフロッピーディスクを見た。表面に設けられた記入欄には、昔の人々がそうしていたようにボールペンかなにかで文字が書かれていた。もしかすると、中身に関する情報かもしれない。
『Collapse OS』
OS――基本ソフトウェアのイントールディスクなのか、これは。そのあまりに自己言及的な、皮肉めいた横文字を見て、腹の奥底から奇妙な笑いがこみあげてきた。
以来、私の人生に新しい目標ができた。このOSを動かせるコンピュータを見つけるか、作る。どんなOSなのかは知らない。フロッピーディスクが生きているのかも判らない。だが、私の心は今や板チョコではなく、それと似た模様を持つキーボードの方を強く求めている。
……
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