2023/04/30
Entering
あれは保健の時間のことだった。はっきりと覚えている。ただでさえ学年合同授業はちょっとした珍事だ。ひんやりとするアルミ天板の大きな机が並ぶ総合室で、年老いた先生がのろのろと聴診器を配っていた。聴診器は隣り合った子と二人一組の割り当てらしく、僕は不用意にくるくる回る円形のスツールを両手でがっちりと抑えながら相手の子と向き合った。その子はさらなる慎重さでスツールの回転機構への不信任を露わにして、一旦立ちあがってから姿勢を変えて座り直した。
先生の話によると、今日は心臓の動きを観察する授業とのことだった。告げられたページをめくろうと机の上に手を伸ばすと、相手の子が「ううん、私が」と言って教科書を開いて見せてくれた。ポップでコミカルな外枠のデザインとは裏腹に、聴診器をあてがわれた人体図の写実感は少々不気味ですらある。目をそらすと相手の子の名札が視界に入った。千佳ちゃんと言うようだった。
「うえーい」
遠くの方でガキ大将のバイソンがスツールを高速回転させて、取り巻きとはしゃぐ大声が聞こえた。さっそく先生はのそっと腰を浮かせて注意に向かったが、このぶんだと彼の場所までたどり着く前に定年退職を迎えそうな印象を受けた。案の定、バイソンの悪ふざけを皮切りに治安が乱れて、ちらほらと雑談を交わしたり立ち歩いたりする子たちが現れはじめた。
「ねえ、どっちから先に聴く?」
一方、千佳ちゃんはあくまで授業に倣う姿勢を崩さず、僕も連中と一緒になって騒ぐ道理などみじんもないと思っていたので「ウーン、じゃあ僕が」と答えた。親切にも広げてくれていたページの図解を頼りに聴診器を身に着けようとすると、そこへつかつかと足早に別の子が歩いてきた。
唇を一文字にぎゅっと結んで迫るその子は、あたかも決闘を挑むかのような面持ちで千佳ちゃんに短く言った。
「どいて」
これは明らかなる命令である。お願いではない。突然降って湧いた上下関係に千佳ちゃんが動揺していると、その子はやや鋭角な目元をさらに釣りあげてキッと睨んだ。じきに雌雄が決したらしい――二人とも女の子だけども――千佳ちゃんはおずおずと立ちあがって脇にのき、代わりに件の子が勢いよくどすんと座った。
改めて正面から見ると、僕はこの子のことをだんだん思い出してきた。肩までかかる長いまっすぐな髪の毛に足を組んだ乱暴な姿勢の取り合わせは千佳ちゃんとはなにもかも対照的だ。間違いなくこの子は回転式スツールをわざわざ手で抑えたりしないし、立って自分の姿勢を変えたりもしない。
「ほら、さっさと聴診器をつけて」
そんな彼女と出会ったのは、などと頭の片隅で回想を並走させながら、僕は鞭を打つようなぴしゃりとした声に急かされて胸を張る彼女に聴診器をあてがった。すると、耳に伝わってきたのは意外にもか細い心臓の鼓動だった。驚いて目を上げると尊大そうな一文字の口元が映ったが、やはり心拍は弱々しかった。
「ちょっと、なんとか言ったらどうなの」
片耳で微かな鼓動、もう片方の耳で鞭を打つような声を聴いた刹那に、僕はどうしようもなく形容しがたい感情に侵された。答えあぐねているうちにその子は「あーもういい!」と座った時と同じ勢いで立ちあがり、ずかずかと遠ざかっていった。まだ僕はなんらかの未知の感情に侵襲された感覚を味わっていて、我に返ったのは千佳ちゃんに「ねえ、大丈夫?」と声をかけられた時だった。
ほどなくして千佳ちゃんの心臓の音も聴くと、たちまち力強い和太鼓のごとき響鳴が頭蓋を満たした。目をやると鮮やかな緑のスカートの両端を手でぎゅっと掴んで、恥ずかしげに笑みを浮かべている。なぜだか僕はこの瞬間、千佳ちゃんに対する関心が急速に薄れていくのを感じた。
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