2023/04/30

Entering

 あれは保健の時間のことだった。はっきりと覚えている。ただでさえ学年合同授業はちょっとした珍事だ。ひんやりとするアルミ天板の大きな机が並ぶ総合室で、年老いた先生がのろのろと聴診器を配っていた。聴診器は隣り合った子と二人一組の割り当てらしく、僕は不用意にくるくる回る円形のスツールを両手でがっちりと抑えながら相手の子と向き合った。その子はさらなる慎重さでスツールの回転機構への不信任を露わにして、一旦立ちあがってから姿勢を変えて座り直した。 先生の話によると、今日は心臓の動きを観察する授業とのことだった。告げられたページをめくろうと机の上に手を伸ばすと、相手の子が「ううん、私が」と言って教科書を開いて見せてくれた。ポップでコミカルな外枠のデザインとは裏腹に、聴診器をあてがわれた人体図の写実感は少々不気味ですらある。目をそらすと相手の子の名札が視界に入った。千佳ちゃんと言うようだった。 「うえーい」 遠くの方でガキ大将のバイソンがスツールを高速回転させて、取り巻きとはしゃぐ大声が聞こえた。さっそく先生はのそっと腰を浮かせて注意に向かったが、このぶんだと彼の場所までたどり着く前に定年退職を迎えそうな印象を受けた。案の定、バイソンの悪ふざけを皮切りに治安が乱れて、ちらほらと雑談を交わしたり立ち歩いたりする子たちが現れはじめた。 「ねえ、どっちから先に聴く?」 一方、千佳ちゃんはあくまで授業に倣う姿勢を崩さず、僕も連中と一緒になって騒ぐ道理などみじんもないと思っていたので「ウーン、じゃあ僕が」と答えた。親切にも広げてくれていたページの図解を頼りに聴診器を身に着けようとすると、そこへつかつかと足早に別の子が歩いてきた。 唇を一文字にぎゅっと結んで迫るその子は、あたかも決闘を挑むかのような面持ちで千佳ちゃんに短く言った。 「どいて」 これは明らかなる命令である。お願いではない。突然降って湧いた上下関係に千佳ちゃんが動揺していると、その子はやや鋭角な目元をさらに釣りあげてキッと睨んだ。じきに雌雄が決したらしい――二人とも女の子だけども――千佳ちゃんはおずおずと立ちあがって脇にのき、代わりに件の子が勢いよくどすんと座った。 改めて正面から見ると、僕はこの子のことをだんだん思い出してきた。肩までかかる長いまっすぐな髪の毛に足を組んだ乱暴な姿勢の取り合わせは千佳ちゃんとはなにもかも対照的だ。間違いなくこの子は回転式スツールをわざわざ手で抑えたりしないし、立って自分の姿勢を変えたりもしない。 「ほら、さっさと聴診器をつけて」 そんな彼女と出会ったのは、などと頭の片隅で回想を並走させながら、僕は鞭を打つようなぴしゃりとした声に急かされて胸を張る彼女に聴診器をあてがった。すると、耳に伝わってきたのは意外にもか細い心臓の鼓動だった。驚いて目を上げると尊大そうな一文字の口元が映ったが、やはり心拍は弱々しかった。 「ちょっと、なんとか言ったらどうなの」 片耳で微かな鼓動、もう片方の耳で鞭を打つような声を聴いた刹那に、僕はどうしようもなく形容しがたい感情に侵された。答えあぐねているうちにその子は「あーもういい!」と座った時と同じ勢いで立ちあがり、ずかずかと遠ざかっていった。まだ僕はなんらかの未知の感情に侵襲された感覚を味わっていて、我に返ったのは千佳ちゃんに「ねえ、大丈夫?」と声をかけられた時だった。 ほどなくして千佳ちゃんの心臓の音も聴くと、たちまち力強い和太鼓のごとき響鳴が頭蓋を満たした。目をやると鮮やかな緑のスカートの両端を手でぎゅっと掴んで、恥ずかしげに笑みを浮かべている。なぜだか僕はこの瞬間、千佳ちゃんに対する関心が急速に薄れていくのを感じた。 Read more

2023/02/11

Overwritten

 あまり記憶には残っていないけど、私は幼い頃に一度死にかけたらしい。なにかに気を取られやすい質だった私はその時、するっとママの手をすり抜けて車道に飛び出した。いくらなんでも車が危ないってことは当時の私にも解っていたはずなのに、今となってはそんなに気になったものがなんなのかも分からない。 次の瞬間、横からすごい力で吹き飛ばされて、すぐに目の前が真っ暗になって、目が覚めたら真っ白な部屋のベッドで寝ていた。パパとママと知らない人たちが周りにたくさんいて、目が合った途端に抱きしめられた。癇癪を起こした私よりも大きな声で泣き叫ぶ二人の姿はよく憶えていて、それが数少ない残っている方の記憶だった。 「じゃあ、これは?」 「りんご」 「よくできました。じゃあ、これは?」 「バナナ……でも、色が変だね」 「そう、そう。これはまだ赤ちゃんのバナナなの」 「私もあかちゃんって呼ばれる。あかりだから」 起きてからしばらくは、笑顔が得意な大人の女の人と一緒にいた。彼女がシート端末をこちらに向けて、指先で押すと絵が表示される。私はそれがなんなのか当てなければいけないようだった。結果的に一度も外した覚えはない。分からなくても女の人がヒントをくれたからだ。そんな療養生活を繰り返しているうちにパパとママが迎えにきて、私は家に帰った。家に帰ると、いつもと同じ部屋にいつもと同じおもちゃがあって、とても安心できた。 しかし、まもなくして私の後遺症ははっきりと露見するところとなった。 <まずい> おやつの時間にりんごを食べていると突然、声がした。 驚いて左右をきょろきょろしても、誰もいない。後ろを見渡してもいない。 気を取り直して食べかけのりんごに取りかかると、そこでまた声がした。 <まずいから、食べないで> びくっとしてりんごを取り落したが、大好きなりんごをけなされた怒りの方が上回って私は大声をあげた。 「まずくないもん! りんごおいしいでしょ!」 前触れなく虚空に向かって怒鳴りだした娘に驚いたのはもちろんパパとママだ。二人ともめいめいにすっ飛んできて、どうしたのかと尋ねた。 「りんごまずいって言うの」 「りんご、もういらないのね?」 私の抗弁を曲解したママがりんごの載った皿を下げようとすると、私は必死の形相で皿を手元に引き寄せた。 「りんごはおいしいよ! でもまずいって言う子がいるの」 私はどこともつかない空中を睨みつけた。二人は、いよいよ困惑した様子だった。 「たまに声が聞こえるの。りんごまずいって言うから、私はこの子きらい」 「へえ……その子は、どんな見た目をしているのかな?」 「目には見えたことない。頭の中で聞こえるだけ。たぶん、女の子だと思う」 「女の子……それは、声で分かるのかい?」 「うん」 大慌てだった両親と違って、クリニックの先生は落ち着いていた。時々、私の話す内容を手元のシート端末に記録しながら、私の頭の中に住む妖精の輪郭を掴もうとしていた。 「名前はあるのかな?」 さっそく頭の中に訊いてみた。初対面から病院に向かう間に私はすっかり理解した。彼女は空中ではなく頭の中にいて、彼女がそうであるように私も頭の中で話さないと答えられないことを。私の声は反響して変なふうに聞こえるらしい。 <あなたのお名前は?> <わたしの名前はまだないよ。付けてもらう前に捨てられちゃった> 「ないって」 明らかに重要な経緯を私は意図したのかしないのか、大幅に省略して先生に伝えた。先生は「あかりちゃんがなにか名前を付けてあげるといいよ」とにこやかに教えてくれた。家に帰った私は家族共用のシート端末に向かって話しかけて、自分と似た意味を持つ言葉を彼女に与えた。自分とそっくりになれたら、りんごも好きになると思ったから。 <るくすちゃん> <るくす……? それ、わたしの名前?> <そう。嫌なら、りんごちゃんって呼ぶ> <じゃあ、るくすでいい> 以降、私は自分で言うのもなんだけど明確に平凡な少女として人生を歩んできたつもりだ。特別に優秀でも落第生でもなく、人並みに趣味があったりなかったり、流行を追いかけたり嘲ってみたり。パパとママと毎月通うクリニックの先生はそういった日常の話をすごく詳しく知りたがった。対して私は、平凡なりに成長した代償としてだんだん自分の話をしたくなくなった。二人と先生の話しぶりで、るくすをどうやらイマジナリーフレンドの一種だと想定していることも判ってきた。 当然、私も頭の中の妖精を誰かに認めてもらうのは難しいと徐々に学んだ。高学年に差し掛かったあたりで周りからの「イタい子」認定を払拭すべく、イマジナリーフレンドの”設定”を封印した。そんな感じで、ようやく私が彼女との世界と外界での振る舞いを区分できるようになった頃、パパとママに大切な話を持ちかけられた。二人はやけに姿勢正しく椅子に座って待っていて、表情を固く引き締めていた。そして、家族共用ではない別のシート端末を持ち出して、私の頭が本当はどうなっているのか告知した。 要するに、私の頭の中には脳みそがまったく入っていないということだった。 例の事故の後、私の体は無事でも頭の方はどうもだめだったみたいで、その日のうちになんとかしないと助からなかった。幸いにも二人は家族保険をかけていて、それの特約には実験的先進医療の優先対象権、なんてものが含まれていた。もっと運の良いことに、そんな先進医療の用意が当日中に手配できてしまった。二人はおびただしい量の免責事項を読まされ、何度も生体認証をして、ついに私の頭蓋骨から役に立たなくなった脳みそをかきだす法的許可を下したのだった。 かきだす前に脳みそからコピーされた私の精神は縦横五センチにも満たない正六角形の量子チップに収められて、今では頭蓋骨の底面に建設された台座にちょこんと載っている。 こんな話をいきなり聞かされて、私は思わず自分の頭をごつんと叩いた。 叩くこぶしの感触が、まさしく空洞を打っている感じがした。私ってどんなに頑張っても全然普通じゃないんだ。 るくすが頭の中でくすくすと笑ったので、もう一度叩いた。 Read more

2022/10/07

人生やり直せるからって勝ち確だと思うな

 急な話で申し訳ないけど君は人生をやり直せることになった。現在の人格と記憶を保ったまま、任意の過去の自分に時間移動できる。いわゆるタイムリープってやつだ。君がよく知るであろう言葉で表せばね。ああ、僕が誰かは気にしなくていいよ。問題はやり直したいかどうかだ。今の自分にすっかり満足しているなら断れるが……どうせ断らないだろ? 僕調べでは対象者の七十三パーセントが五分以内に合意している。誰しも人生に不満はあるものだね。さあ、まずはいつ頃の自分に戻りたいか決めるといい。 ただし、新生児まで戻るのはおすすめしないな。いくら成人相当の人格が備わっていても、肉体が未発達だと不測の事態を避けられない場合があるからね。赤ちゃんの君は大人の腰の高さから落ちただけでも死にかねないぞ。それに、新生児は口蓋も咽頭もろくに機能していないから発話が難しい。食事の内容もえらく乏しい。おまけに年単位でベビーベッドから出られない。外出時はたいていベビーカーだ。 要するに行動の自由が皆無で、日々の食生活は単調で、会話も運動も趣味も行えない。これって大人相手にやったら普通に全然拷問だと思う。こんな暮らしがだいたい二年は続く。その間に精神が荒廃しない自信があるか? 僕にはない。 というわけで、繰り返すが新生児はおすすめしない。少なくとも二足歩行が可能で、行動に最低限の裁量が与えられていて、本くらいは読める肉体が望ましい。かといって就学年齢ギリギリに戻ると今度は人間関係のつまらなさに萎えるかもしれないけどな。「頭脳は大人」で有名なあの名探偵が小一のガキと会話してて死にたくならないのが僕には不思議だよ。 いっそ不登校児にでもなろうか? なにしろ君の人格はすでに完成している。わざわざ義務教育をやり直す必要はないかもしれない。君の両親の物分かりが揃って良かったら、理屈のこじつけ次第では楽しい不登校ライフも実現できそうだ。だがまあ、無理なら諦めてせっせと通うんだな。教育方針の対立や不振が家庭内不和を引き起こすこともある。下手な変化を起こさないのも二回目の人生では大切だ。 もともと不登校だったって? なら、せっかくの二回目だしハードモードにチャレンジしてみたらどうだろう。これは下手な変化とは限らないぞ。 人生をどうやり直すかは人それぞれとはいえ、以前と異なる職に就きたいならそれに応じた資格や学歴を目指さなければいけないし、かつて夢破れた甲子園や国体に再挑戦するならもっと早く運動に取り組まないといけない。単純に金が欲しいだけでも種銭は必要だ。百倍に上がる株を買っても元手が百万円ならリターンはせいぜい課税前の一億円にしかならない。あるいは、仮想通貨の歴史に明るい人は2010年あたりからビットコインの採掘を始めるかもしれないな。その場合でもできるだけ性能に優れたコンピュータが欲しい。 そう考えると不登校ライフも延々と続けるわけにはいかなくなってくる。スポーツ選手にしろ高給取りにしろ、そこに行くまでの道のりには学校生活が大きく関わっている。言わずもがな、高校以降は学校での交友関係も侮れない。そういう時期に形成した人脈はやり直し後の人生でも役に立つ。人生二回目の君は、おそらく友人選び一つとっても損得勘定を働かせずにはいられなくなるはずだ。ゲームだって二周目は効率的なプレイングに寄りがちだしな。 だが、やりすぎるなよ? あまりストイックに振る舞いすぎれば、それはそれでただの嫌なやつとして敬遠される。貴重な二回目の学生時代をそんな最悪の印象で終わらせたくないだろ。人生のやり直しを扱った物語だと雑に省略されがちだが、いじめっ子やムカつく輩をスパーンとやっつけて済むほど現実は簡単じゃない。いくら二回目でも針のむしろみたいな人間関係に囲まれて暮らすのは相当しんどい。 未来の情報は君が持つ最強兵器に違いないが、それにしたって2022年以前に留まっている。現時点で君が死にかけの老人でなければ、やり直していくらか経てば2022年を再び通過していくことになる。以降はまた手探りの人生だ。たとえビットコインで億っていても決して安心はできない。いつ税制が変わるか判らないし、何十年か後に共産主義革命が起きない保証もない。じゃあ、どうする? 余裕のあるうちに、あらゆる状況に対応できるような知識を身に着けて備えるしかない。 ここで話は少年少女の時期に戻る。自由時間が多い子どもの間に、とにかく勉強しておく。これが結局のところモアベターだ。オリンピック出場の夢が叶おうと、東大理三に合格して医者になろうと、それ一本で一生安泰とは言いがたい。本の虫になったからといって未来予測に長けるわけじゃないが、徒手空拳で挑むよりはずっと有効打が期待できる。あー、やっぱり勉強って大事だね。なんだかむっちゃ深イイ話で締められそうだな……。 そんなこんなで色々納得して本を読みだした人生二回目の君。さしあたりは歴史でも学び直すか……と思いついてページをめくると、そこで強烈な違和感に気づく。あれ? なんでアドルフ・ヒトラーが画家なんだ? 独裁者だったんじゃ……ん? 『9.11』って、たしか飛行機がビルに突っ込んだテロ事件だったよな? ……なんでニューヨークが焼け野原になってんだ? Read more

2022/09/16

ノイズキャンセリング

 その洞穴は足腰まで浸かる水たまりを越えた先にあった。両脇を切り立った高い崖に囲まれ、道は狭く、反対側は鬱蒼と茂った山の森林に遮られている。ゆえに侵入経路はここ一つしかない。昨夜の雨露と思しき雫が両脇の崖を伝って落ち、できあがった水面が陽光をてらてらと反射している。 ウィリアム・ソイル隊長率いる王家の守護隊〈ロイヤルガード〉は崖の手前に整列していた。黄金色の輝きを放つ板金鎧と兜に身を包んだ金髪碧眼の剣士が五名、馬車に運ばせた梯子で崖の上に登った弓兵も他に十名いる。 しかし、剣士たちが洞穴にすぐ歩を進めることはなかった。まず歩を進めるのは、彼らの前に無造作に並ぶ汚い身なりをした十数名の男たちだ。実のところ、元は正確に何人だったのか守護隊長は覚えていなかった。道中で逃走を試みて処刑された者が数名、獣に襲われて重傷を負ったために捨て置かれた者が数名いて、もはや頭数の把握に意味はない。 「よし、貴様ら。彼方に見える洞穴に例の怪物――セイレーンが棲んでいる。この中の誰か一人でも見事それを討ち取ってみせたなら、貴様らはみな自由の身となるであろう」 ウィリアムは威厳を込めた声で高らかに宣言した。体じゅうを泥や土埃で汚し、ボロきれを着込んで防具の一つも身に着けていない男たちは、それでも目を爛々と輝かせている。万が一の成果を期待してなまくらの剣を握らせたが、剣術の心得がある者は一人としていないことを隊長は知っていた。 「セイレーンって、あの神話のセイレーンだよな……下半身が魚で、上が美女だとかいう……」 「なんでそんなのが洞穴にいるんだ。海にいるんじゃねえのか。へっへっ、旦那ァ、もしよければだがよう、そいつ、殺す前に俺らで犯しちまっても構わねえかい」 もともと歪んだ顔をさらにひどく歪めながら、一人の男が言った。他の男たちも同調してへらへらと不敵に笑った。 「……ああ、構わんとも。好きにするがいい」 やれるものならな。 ウィリアムは侮蔑の態度を露わにしないよう注意を払った。 「貴様らの任務はとにかくセイレーンを殺し、彼女が守る金銀財宝を我らが王の下に結集せしめることだ。われわれも後に続く。さあ、行け!」 守護隊長の号令とともに男たちはどたどたと洞穴に向かって駆けだしていった。多少の間をおいて〈ロイヤルガード〉も進軍した。 「今回のやつらは強姦魔や物盗りの類だ。前ほど長くは持たない。〈ロイヤルガード〉、抜剣しろ!」 すうっと優雅な音をたてて鞘から次々と引き抜かれたその剣には、きらびやかな赤と青の宝石がはめ込まれている。刃は白金のごとき美しさで、汚れ一つついていない。 ウィリアム守護隊長は笛持ちに目配せをした。角笛が短く二回、長く一回鳴らされると、崖の上の弓兵たちはすばやく弓に矢をつがえた。洞穴の奥に蠢く人影が見えたのだ。 セイレーン……南方の伝説によれば歌声と美貌で船乗りを魅惑し、海底に引きずり込んで食い殺そうとする海の怪物だという。少なくとも、南方では……。 ついにセイレーンが姿を現した。 裸体に金、銀、ありとあらゆる宝飾品を巻きつけているものの、骨と皮しかない痩身の貧しさはいかんともしがたく、生気の失せた青白い顔には濁った灰色で塗りつぶされた眼、口には黄ばんだ歯がまばらに生え、唇はあるのかないのか判然としないほど薄い。もちろん、下半身は魚ではない。あまりの醜さに囚人たちも動揺を隠しきれない様子だった。 彼女はぎょろぎょろと周りを見渡すと、眼前に群がる男たちに口を歪めて威嚇のうなり声をあげた。 「各自、防御体勢をとれ!」 守護隊長の指示に従って〈ロイヤルガード〉は兜で守られた頭部をさらに板金鎧の両腕で覆った。またある者は、崖の壁面に退避した。一方、事情を知らされずにいる囚人たちは牙も鉤爪も持たない怪物と見て油断したのか、彼女に向かって我先へと突進していった。しかし、足腰まで浸かった水たまりのせいで誰も思うようには接近できていない。じゃばじゃばと足で水をかく音ばかりが威勢よく響く。 一旦、ウィリアムも進行を諦めて壁面へと逃げた。後の結果はあえて見るまでもない。前回も、前々回も、見たからだ。そう、彼女の口が、あたかも虚ろな顔を占めるかのように大きく開き……。 ――キイイイイイイィィィィィィエエエエエエエエェェェェェッ!!!!!!! 頭蓋を突き刺す呪いの悲鳴が耳に押し入ってきた。板金鎧がぐわんぐわんと共鳴し、頑丈な岩でできた崖にも亀裂が刻まれた。不運にもセイレーンの悲鳴の直線上に立っていた囚人たちは、口、鼻、耳の穴という穴からおびただしい量の血を吐き出した。陽光で輝く水面は一転、鮮血で真っ赤に染まった。たまたま範囲外にいた囚人も無事では済まず、頭を抱えてうずくまる者が続出した。 「弓兵!」 残響でほとんど聞こえなくなった耳に構わずウィリアムは崖の上に向かって叫んだ。幸い、弓兵たちは聴力を失うほどの被害は受けていなかったらしく、守護隊長の命令に応じて即座に矢を放った。矢は十本のうち二本が巻きついた金、銀、宝飾品の隙間を通り抜けてセイレーンに突き刺さった。ぎえっと汚い声を漏らした彼女はしかし、全身を器用にくねらせて崖の上の弓兵たちを睨みつけた。守護隊長は急ぎ回避を命じようとしたが、間に合わなかった。 二回目の悲鳴は崖の上の弓兵を直撃した。大半は即死し、何人かは遁走を図って崖から転落した。蛮勇に長けた数名は命と引き換えに反撃の矢を射たが、放たれた矢は金縛りを受けたかのように彼女の眼前で留まり、ややあって粉微塵に粉砕された。 その間、ウィリアムは板金鎧と水の抵抗に阻まれながらも全力で前進を続けていた。宝石のきらめく美しい剣がセイレーンに振るわれた時、かろうじて彼女の口は開ききっていなかった。その喉笛が膨らむ寸前に城打ちの鋭い刃が首筋を切り裂いた。一太刀で断ち切られた頭部が、宙を舞って水たまりにぼしゃんと落下した。主を失った胴体は溺れた人の振る舞いでしばらく暴れた後、急速に静まった。 「なんとか、やりましたね……」 〈ロイヤルガード〉の剣士たちが守護隊長に近寄ってきた。剣士の一人がセイレーンの濡れた生首を掴んで、高らかに掲げた。とはいうものの、五体満足に生き残っているのは板金鎧と兜に身を守られた〈ロイヤルガード〉だけで、囚人たちと弓兵はいずれも死んだか、手負いの者しかいなかった。 「いや、無駄骨だった……帰るぞ」 討伐の成功に一瞬、表情を緩めかけたウィリアムは洞窟の奥に目をやって再び顔をこわばらせた。セイレーンが、もう一体現れたのだ。黄金色の板金鎧をがしゃがしゃと言わせながら〈ロイヤルガード〉の剣士たちが逃げ出す最中、半死半生でもがいていた囚人たちの怨嗟の声がこだましていたが、崖から離れると耳に届かなくなった。だが、セイレーンの悲鳴は遠くでもはっきりと聞こえてきた。 Read more

2022/06/06

マンション自治会怪異退治係

 昼下がりの静寂を突き破るがごとく打ち鳴らされたチャイムに、僕は結構な怒りを覚えつつ応じた。例えるなら「はあい」と「あ゛あ゛?」の中間をとったぐらいの感じだ。 やや大げさにドアを開け放つと、そこにはいつか見たような顔つきの老人が立っていた。記憶は曖昧だがきっと同じ階の住民に違いない。瞬時に公共的な表情を取り繕った僕に、それを知ってか知らずか老人はぶっきらぼうに言った。 「あんたに決まったから」 「はい?」 「自治会の」 「ん?」 「アレの係にだよ」 「……と申しますと?」 会話を三往復したのに有益な情報はてんで手に入らなかった。いまいち要領を得ないなと訝しんでいると、驚くべきことに当の老人はもっと呆れた顔をしていた。どうやら要領を得ていないのは僕の方だと考えているらしい。歪んだ形の口元からハア、とため息を漏らすのが聞こえた。 「あんた、ここ住んで何年目?」 「今年からなので……まあ、半年くらいですかね」 「ここに入った時の契約書覚えてる? 自治会に強制加入なんだけども」 「ええ、それはもう、はい」 言われて初めて思い出したのは内緒だ。自治会という組織があれこれやっているのは知っているが、その一員に僕が数えられていたのは正直言って心外でしかない。こういうのってボランティア活動とかが好きな人たちの間で勝手に回っているものじゃないのか。 「昨日あったんだよ集会が。あんた出てなかったみたいだけど」 「昨日? ――まあ、色々忙しくて、はい」 初耳だ。 「それであんたがアレの係に決まっちゃったんだよ。いなくてもくじ引きで決まっちゃうからさ、こういうのは。だっていないから抜かそうなんて言ったら、来てる人の方が損するだろ」 「ウーン、なるほど。それで、アレというのは?」 これでまた話をそらされたらどうしたものかと思ったが、ついに老人は明確に回答をよこしてくれた。 「『怪異』の退治係。出るんだと、来週中に。会長のお告げだ」 「はあ?」 もっとも、回答が明確だからといって僕の理解が及ぶかどうかは別問題なのだけれども。 Read more

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