点と接線

#essay

「対戦」などしていない

かのイーロン・マスクが「Xは対戦型SNSだ」と表明して以来、この発言は様々な形で受け取られてきた。和やかにお喋りしたり好きなものを共有する場ではなく、激しく意見を戦わせる場に変わったのだと悟って去る者、逆に〝お墨付き〟が出たと喜び勇んでレスバに拍車をかける者、単にSNS中毒で賛成反対以前に離れるすべがない者など、多くの立場がある。今回は主に二番目の立場を糾弾していきたい。そもそも「対戦」とはいかなる代物だろうか? 原文では「PvP」と表現しているので、正確にはオンラインゲーム的な文脈が強いと思われる。CPUが相手ではなく人間のプレイヤー同士で戦うジャンルのことだ。大抵の場合はラウンド制など固有のルールがあり、勝負の過程は検証可能で結果はゲームシステムが決定する。

メタると人生がダメになる

僕がかけている眼鏡は眼鏡市場のZEG-C01だ。何年も前に買ったものだが、そこそこ値が張るだけあってとても作りがしっかりしている。部品点数が極限に少ない、ミニマルな商品コンセプトも自分によく合っていると感じる。まったく壊れる気配はないが、もし壊れても同じ眼鏡を買うだろう。ところで、ブログにメタ視点を持ち込むのは格好が悪いと思う。「更新が滞っていた」や「受けると思った」などと、話の筋と無関係な外部の事情を説明したり、上から覗き込むような態度を記事の中で見せる振る舞いのことだ。本来、そんな閑話は必要ない。嘘でも本当でも話を書いている時はその純度を高めるべきである。

結局、東大生に任せるしかない

5月16日に東京大学の学園祭『五月祭』が開催される。僕は東大生でも東大OBでもないが、文芸サークルの主宰者が東大生であったりなどでなにかと縁が多く、ここ数年はよく足を運んでいる。残念ながら今回は同人誌の出展予定はない。早く万全な体制を整えて定期刊行物をビシバシと出していきたいものである。その五月祭だが今年は少し揉め事が起こった。(本当は毎年いつもなにかで揉めているが)あの排外論者にして陰謀論者、SNSが生み落とした令和の魔物、参政党の神谷某が五月祭で講演するというのだ。講演を依頼したのは東大生の保守サークルとのことで、当然ながら界隈では激しく賛否が沸き起こった。

そこそこ賢い宇宙人はどんな法律を作るか

なぜ”そこそこ”なのかというと、とてつもなく賢すぎる存在は我々には想像できないからだ。せいぜい、人類の中でとびきり賢い個体が、その宇宙人にとっては普通、くらいの基準でなければ扱いきれない。少なくとも実在しうる範疇なら、当人の言動をもとにある程度のシミュレーションが行える。姿かたちも我々と似通っていなければ困る。手足が8本あって思念で通じ合えるとか、超合金の肉体を持っているとかだと、たとえ高知能であっても文明が発達しない懸念がある。文明は不足を補うために発達する。凍傷も日焼けも怪我も負わないなら被服は最低限で構わないし、めったに飢え死にしないなら食糧を備蓄する必要も、奪い合う理由もない。当然、外敵の侵入を防ぐ頑丈な柵や堀も不要となる。大集団で暮らす利点も大してない。