二本の短編小説を書いた。ワンアイディアのものと、活劇性の高いものをそれぞれ一本ずつ。僕はこれまで短編を書いたことがないわけではないが、基本的には新人賞狙いの長編一辺倒でやってきた。
今思えば長編小説は執筆に時間がかかりすぎて、浮かんだ構想を文章に起こして試すには長丁場すぎるきらいがあったと言える。結果として未完成の原稿ばかりが堆積していき、実際に応募まで進んだ作品はごく少数に留まった。
そこへいくと短編は書きやすい。キャラクターの造形をそこまで深堀りする必要がなく、思いついたテーマをすぐに単一の物語として働かせることができる。短編賞、それもSFの短編賞はほとんどないので実益に結びつきにくいところはやはり欠点になってしまうが、中長期的に見れば決して無駄ではないように感じた。
Viという名前のエディタがある。初めてリリースされたのは1976年。僕が生まれるより20年近く早い。上記の画像はWikipediaから拝借したViの実行画面だが、これは今からする話にはやや不適切かもしれない。というのも、この画像のViは明らかにモダンなコンピュータ上で実行されており、‘76年の頃のそれよりもはるかに解像度が高く発色数にも優れていることがうかがえるからだ。
Viという名称は英単語のVisualに由来しているらしい。 このモダンに実行されたViでさえ、黒い背景とあらかさまにジャギった白い文字からビジュアル性を感じ取れる人はそう多くないと思われる。今日の基準から言えばむしろコマンドラインの方に近い。しかし、‘76年の段階においてはViの持つ機能が十分にビジュアルという単語に値するものであったことは、当時のコンピュータ史を紐解けば想像に難くない。
なにかと悪い方向に物事を考えるくせがある。いかにも企業の危機管理部が提起しそうな「最悪の想定」を大幅に越えて、ほとんどサスペンスかホラーの域に到達するまで妄想をやめられない。そのせいか現実の話ならともかく、とんとん拍子にうまく展開が進む手合いのフィクションはどうにも苦手だ。
これは必ずしもリアリティの話ではない。創作だからこそどんなに極端に後味が悪くても楽しむ事ができるのに、わざわざ底抜けにお気楽な内容にしてしまう意義があるだろうか。せっかく刺激的な人物や設定を作ってもそれでは自ら魅力を殺いでしまっているようなものだ。
京都で上京と書くとそれは「かみぎょう」と読まれる。間違っても首都に行く意味とは見なされない。彼らにとって東京は上るものではない。むしろ東下り(あずまくだり)という言い回しさえある。千年の都を自称する気高さは伊達ではない。
そんな京都人も府外の相手ならともかく同郷で優位を保つのは難しい。下の地図の範囲内にある地域は「洛中」と呼ばれて一定の評価を得るが、ここから外れた人たちは「洛外」として実質的に外様の扱いを受けるからだ。