点と接線。

たとえ光が見えなくても

 今でも思い出に残っているのは、指先に残るわら半紙の感触。言われるままにピンと立てた人差し指を滑らせると、横にいるお父さんが耳元に語りかけてくれる。「そうら、そこがゲオルゲン通りだ。そこを右に曲がると――」私は言葉を遮って大声で答えた。「レオポルト通りね!おしゃれなお店がいっぱいあるの」「そうだ、いつかお前もそこで立派なドレスを買ってもらえるようになる」耳の奥底からあまりにも聞き慣れすぎた高周波音が徐々に近づいているが、まだ私は喋っている。「でも、私が着たってしょうがないわ。どうせ分からないもの」「そんなことはないよ。立派なお洋服は着るだけで分かるんだ」記憶の中の私はいっそう声を張り上げる。「じゃあ、今、欲しい」「今は……難しいかな。そういうお店はどこも閉まっている」「どうして?」「……みんな、他のことで忙しいんだ。さあ、指がお留守だぞ」私の指先がぐんぐんと先に進み、ルートヴィヒ通りを過ぎる頃には高周波音は耳を覆い尽くさんばかりだった。「ずっとだ、そう、ずっと、さあ、広場に着いたぞ。どこだか分かるかな?」思わず、私は轟音に負けないように大声で叫んでいた。「マリエン広場!私と同じ名前の――」

論評「アドレセンス」:男女論の行く末

正直なところ、このテーマに言及するのはあまり気が進まない。公的に解決を図るのが難しい問題は語りづらい。経済や世代間の格差はまだ辛うじて客観的に分析しうる。分析可能ということは全体の傾向に則って政策を反映させやすく、有力な効果も期待しやすい。すなわち、お金がない人にお金を配る、雇用がなかった世代のために雇用を創出する。もちろん一言で言えるほど簡単ではないが、どうすれば解決に近づくのか分かっているだけでも話は早い。対して、男女の営みに対する不満はそうはいかない。富や雇用機会は分配できても恋人は分配できないからだ。そういった悩みは当人にしか解決できない。その手の問題を無理に扱った時、大抵は悲劇が起きる。

野良ARG(代替現実ゲーム)の魅力

最近、ARG(代替現実ゲーム)の配信動画を観ている。ARGとは現実に存在するなんらかのコンテンツに操作介入を行い、得られた情報をもとに攻略を進めていくゲームのことだ。コンテンツの種類はWebサイトをはじめとして、自宅に送付されてくる財布や日記帳、給与明細など多岐にわたる。中でも僕のお気に入りは『愛宝学園かがみの特殊少年更生施設』 だ。Webページ上で情報を探索して段階的に謎が解き明かされていく仕掛けが物語の没入感を一層高めている。正直なところ、こういった話を一本の小説で読んでもさほど感心しなかったと思われる。この手の筋書きは巷にありふれているからだ。

論評「漁村の片隅で」:特権性の自覚

誰しも己の特権性を自覚するのは辛いものだ。自分の成功はまるきり自分ひとりの手柄だと信じ込みたいし、逆に自分の失敗は不運や周囲の環境、ひいては社会や国家に帰責したくなる。たぶん、いくらかは双方ともに事実なのだろう。卓越した成功は相応に自己研鑽ゆえであり、愚かな失敗は相応に不運や環境が招いている。現代社会の成り立ちは複雑怪奇でどんな成功や失敗も一人では抱えきれない。しかし、あまりにも奇跡的な実例を目の当たりするとそういう中庸っぽい考え方がただの御為ごかしにしか感じられなくなってしまう。「みんな辛いのは同じなんだ」と先進国の中心で熱唱すれば肩を組んで一致団結できるかと思いきや、世界の片隅に属する人々の辛さは明らかに同等ではない。我々が空気を吸うかのごとく得ている物事が、彼ら彼女らにとっては宝石に値するほど得難い贅沢品なのだ。本作の物語はそれをまざまざと体現している。