2016年にMastodonってのが出た。なんでも自由にサーバを建てられるから巨大資本に言論統制されないらしい。ちょうど真新しさに飢えていた人々はさっそくこれに群がった。かくいう僕もその一人だ。学生が建てたサーバがパンクして企業が支援を申し出たり、政治家がお忍びでアカウントを作ったりなんかして、しばらくお祭り騒ぎになった。しかし分散型SNSが負の側面を露呈せしめるのは割と早かった。自由にサーバを建てられると言っても結局、ほとんどのユーザは人がたくさんいる場所、安定していそうな場所に行きたがる。やがてインフラコストに耐えられなくなった運営者は次々とサーバを手放し、安住の地から放逐されたユーザたちはそそくさと古巣に戻っていった。第一次Mastodonブームの終焉である。以降、Twitterがなにかやらかすたびに分散型SNSは潮の満ち引きを繰り返してきた。
赤の他人に議論を持ちかけてまともに成立することはまずありえない。理想形の議論を完遂させるには相手との信頼関係が必要不可欠だからだ。あけすけな言い方をすれば、友好を損ねたくない後ろめたさこそが議論を成り立たせていると言える。むろん、赤の他人相手にそんな余地は存在しない。ましてや議論をふっかけてくる赤の他人はただの赤の他人でさえない。初っ端から意見が対立している。つまり敵だ。エネミーだ。好感度はゼロじゃない。マイナスからのスタートだ。そんな相手と取っ組み合ってなにかが得られると勘違いしてしまったのがインターネットの罪悪であり、レスバ戦士どもの夢の跡というわけだ。
Amazon Prime Videoにて歴史的ファンタジー大作「ロード・オブ・ザ・リング」の最新シリーズ「力の指輪」 が絶賛公開中だ。僕はJ・R・R・トールキンの原作小説は中途半端で映画化作品しかまともに観ていないが、2話目の段階でかなり期待の持てる出来だと感じた。その「力の指輪」についてだが、浅黒い色の肌をした俳優がエルフを演じていることで物議をかもしている。この俳優はプエルトリコ出身なので本当は黒人ではないものの、人種がなんであれトールキンの原作小説に肌の黒いエルフは登場していないらしい。
前提として、われわれがいま認識している「表現の自由」とは実質的に市場原理に基づくものであり、率直に言えば能力主義の産物である。もし「表現の自由」が単に束縛を受けずに喋ったり書いたりできれば満たされうるのであれば、たいていの専制国家はそれを実現することが可能だ。誰もいない空室とか、閉じられたネットワーク環境でのみ表現を認めればよい。今風に表すと「壁打ち」だけ許せば事足りるということになる。もちろん自由主義国家に住まうわれわれが認識する「表現の自由」はそんな程度の代物ではない。街中で、出版で、オープンなインターネットで、時には嫌がるであろう人の鼻先にさえ、それを突きつける機会までが約束された権利だと確信している。空間を共有する誰か一人でも苦言を呈したら即座に撤去などとなればほとんどの表現は公開できないからだ。「見せる権利」は「見ない権利」を明らかに上回っている。