その洞穴は足腰まで浸かる水たまりを越えた先にあった。両脇を切り立った高い崖に囲まれ、道は狭く、反対側は鬱蒼と茂った山の森林に遮られている。ゆえに侵入経路はここ一つしかない。昨夜の雨露と思しき雫が両脇の崖を伝って落ち、できあがった水面が陽光をてらてらと反射している。
ウィリアム・ソイル隊長率いる王家の守護隊〈ロイヤルガード〉は崖の手前に整列していた。黄金色の輝きを放つ板金鎧と兜に身を包んだ金髪碧眼の剣士が五名、馬車に運ばせた梯子で崖の上に登った弓兵も他に十名いる。
しかし、剣士たちが洞穴にすぐ歩を進めることはなかった。まず歩を進めるのは、彼らの前に無造作に並ぶ汚い身なりをした十数名の男たちだ。実のところ、元は正確に何人だったのか守護隊長は覚えていなかった。道中で逃走を試みて処刑された者が数名、獣に襲われて重傷を負ったために捨て置かれた者が数名いて、もはや頭数の把握に意味はない。
「よし、貴様ら。彼方に見える洞穴に例の怪物――セイレーンが棲んでいる。この中の誰か一人でも見事それを討ち取ってみせたなら、貴様らはみな自由の身となるであろう」
ウィリアムは威厳を込めた声で高らかに宣言した。体じゅうを泥や土埃で汚し、ボロきれを着込んで防具の一つも身に着けていない男たちは、それでも目を爛々と輝かせている。万が一の成果を期待してなまくらの剣を握らせたが、剣術の心得がある者は一人としていないことを隊長は知っていた。
「セイレーンって、あの神話のセイレーンだよな……下半身が魚で、上が美女だとかいう……」
「なんでそんなのが洞穴にいるんだ。海にいるんじゃねえのか。へっへっ、旦那ァ、もしよければだがよう、そいつ、殺す前に俺らで犯しちまっても構わねえかい」
もともと歪んだ顔をさらにひどく歪めながら、一人の男が言った。他の男たちも同調してへらへらと不敵に笑った。
「……ああ、構わんとも。好きにするがいい」
やれるものならな。
ウィリアムは侮蔑の態度を露わにしないよう注意を払った。
「貴様らの任務はとにかくセイレーンを殺し、彼女が守る金銀財宝を我らが王の下に結集せしめることだ。われわれも後に続く。さあ、行け!」
守護隊長の号令とともに男たちはどたどたと洞穴に向かって駆けだしていった。多少の間をおいて〈ロイヤルガード〉も進軍した。
「今回のやつらは強姦魔や物盗りの類だ。前ほど長くは持たない。〈ロイヤルガード〉、抜剣しろ!」
すうっと優雅な音をたてて鞘から次々と引き抜かれたその剣には、きらびやかな赤と青の宝石がはめ込まれている。刃は白金のごとき美しさで、汚れ一つついていない。
ウィリアム守護隊長は笛持ちに目配せをした。角笛が短く二回、長く一回鳴らされると、崖の上の弓兵たちはすばやく弓に矢をつがえた。洞穴の奥に蠢く人影が見えたのだ。
セイレーン……南方の伝説によれば歌声と美貌で船乗りを魅惑し、海底に引きずり込んで食い殺そうとする海の怪物だという。少なくとも、南方では……。
ついにセイレーンが姿を現した。
裸体に金、銀、ありとあらゆる宝飾品を巻きつけているものの、骨と皮しかない痩身の貧しさはいかんともしがたく、生気の失せた青白い顔には濁った灰色で塗りつぶされた眼、口には黄ばんだ歯がまばらに生え、唇はあるのかないのか判然としないほど薄い。もちろん、下半身は魚ではない。あまりの醜さに囚人たちも動揺を隠しきれない様子だった。
彼女はぎょろぎょろと周りを見渡すと、眼前に群がる男たちに口を歪めて威嚇のうなり声をあげた。
「各自、防御体勢をとれ!」
守護隊長の指示に従って〈ロイヤルガード〉は兜で守られた頭部をさらに板金鎧の両腕で覆った。またある者は、崖の壁面に退避した。一方、事情を知らされずにいる囚人たちは牙も鉤爪も持たない怪物と見て油断したのか、彼女に向かって我先へと突進していった。しかし、足腰まで浸かった水たまりのせいで誰も思うようには接近できていない。じゃばじゃばと足で水をかく音ばかりが威勢よく響く。
一旦、ウィリアムも進行を諦めて壁面へと逃げた。後の結果はあえて見るまでもない。前回も、前々回も、見たからだ。そう、彼女の口が、あたかも虚ろな顔を占めるかのように大きく開き……。
――キイイイイイイィィィィィィエエエエエエエエェェェェェッ!!!!!!!
頭蓋を突き刺す呪いの悲鳴が耳に押し入ってきた。板金鎧がぐわんぐわんと共鳴し、頑丈な岩でできた崖にも亀裂が刻まれた。不運にもセイレーンの悲鳴の直線上に立っていた囚人たちは、口、鼻、耳の穴という穴からおびただしい量の血を吐き出した。陽光で輝く水面は一転、鮮血で真っ赤に染まった。たまたま範囲外にいた囚人も無事では済まず、頭を抱えてうずくまる者が続出した。
「弓兵!」
残響でほとんど聞こえなくなった耳に構わずウィリアムは崖の上に向かって叫んだ。幸い、弓兵たちは聴力を失うほどの被害は受けていなかったらしく、守護隊長の命令に応じて即座に矢を放った。矢は十本のうち二本が巻きついた金、銀、宝飾品の隙間を通り抜けてセイレーンに突き刺さった。ぎえっと汚い声を漏らした彼女はしかし、全身を器用にくねらせて崖の上の弓兵たちを睨みつけた。守護隊長は急ぎ回避を命じようとしたが、間に合わなかった。
二回目の悲鳴は崖の上の弓兵を直撃した。大半は即死し、何人かは遁走を図って崖から転落した。蛮勇に長けた数名は命と引き換えに反撃の矢を射たが、放たれた矢は金縛りを受けたかのように彼女の眼前で留まり、ややあって粉微塵に粉砕された。
その間、ウィリアムは板金鎧と水の抵抗に阻まれながらも全力で前進を続けていた。宝石のきらめく美しい剣がセイレーンに振るわれた時、かろうじて彼女の口は開ききっていなかった。その喉笛が膨らむ寸前に城打ちの鋭い刃が首筋を切り裂いた。一太刀で断ち切られた頭部が、宙を舞って水たまりにぼしゃんと落下した。主を失った胴体は溺れた人の振る舞いでしばらく暴れた後、急速に静まった。
「なんとか、やりましたね……」
〈ロイヤルガード〉の剣士たちが守護隊長に近寄ってきた。剣士の一人がセイレーンの濡れた生首を掴んで、高らかに掲げた。とはいうものの、五体満足に生き残っているのは板金鎧と兜に身を守られた〈ロイヤルガード〉だけで、囚人たちと弓兵はいずれも死んだか、手負いの者しかいなかった。
「いや、無駄骨だった……帰るぞ」
討伐の成功に一瞬、表情を緩めかけたウィリアムは洞窟の奥に目をやって再び顔をこわばらせた。セイレーンが、もう一体現れたのだ。黄金色の板金鎧をがしゃがしゃと言わせながら〈ロイヤルガード〉の剣士たちが逃げ出す最中、半死半生でもがいていた囚人たちの怨嗟の声がこだましていたが、崖から離れると耳に届かなくなった。だが、セイレーンの悲鳴は遠くでもはっきりと聞こえてきた。
Read more