あまり記憶には残っていないけど、私は幼い頃に一度死にかけたらしい。なにかに気を取られやすい質だった私はその時、するっとママの手をすり抜けて車道に飛び出した。いくらなんでも車が危ないってことは当時の私にも解っていたはずなのに、今となってはそんなに気になったものがなんなのかも分からない。
次の瞬間、横からすごい力で吹き飛ばされて、すぐに目の前が真っ暗になって、目が覚めたら真っ白な部屋のベッドで寝ていた。パパとママと知らない人たちが周りにたくさんいて、目が合った途端に抱きしめられた。癇癪を起こした私よりも大きな声で泣き叫ぶ二人の姿はよく憶えていて、それが数少ない残っている方の記憶だった。
「じゃあ、これは?」
「りんご」
「よくできました。じゃあ、これは?」
「バナナ……でも、色が変だね」
「そう、そう。これはまだ赤ちゃんのバナナなの」
「私もあかちゃんって呼ばれる。あかりだから」
起きてからしばらくは、笑顔が得意な大人の女の人と一緒にいた。彼女がシート端末をこちらに向けて、指先で押すと絵が表示される。私はそれがなんなのか当てなければいけないようだった。結果的に一度も外した覚えはない。分からなくても女の人がヒントをくれたからだ。そんな療養生活を繰り返しているうちにパパとママが迎えにきて、私は家に帰った。家に帰ると、いつもと同じ部屋にいつもと同じおもちゃがあって、とても安心できた。
しかし、まもなくして私の後遺症ははっきりと露見するところとなった。
<まずい>
おやつの時間にりんごを食べていると突然、声がした。
驚いて左右をきょろきょろしても、誰もいない。後ろを見渡してもいない。
気を取り直して食べかけのりんごに取りかかると、そこでまた声がした。
<まずいから、食べないで>
びくっとしてりんごを取り落したが、大好きなりんごをけなされた怒りの方が上回って私は大声をあげた。
「まずくないもん! りんごおいしいでしょ!」
前触れなく虚空に向かって怒鳴りだした娘に驚いたのはもちろんパパとママだ。二人ともめいめいにすっ飛んできて、どうしたのかと尋ねた。
「りんごまずいって言うの」
「りんご、もういらないのね?」
私の抗弁を曲解したママがりんごの載った皿を下げようとすると、私は必死の形相で皿を手元に引き寄せた。
「りんごはおいしいよ! でもまずいって言う子がいるの」
私はどこともつかない空中を睨みつけた。二人は、いよいよ困惑した様子だった。
「たまに声が聞こえるの。りんごまずいって言うから、私はこの子きらい」
「へえ……その子は、どんな見た目をしているのかな?」
「目には見えたことない。頭の中で聞こえるだけ。たぶん、女の子だと思う」
「女の子……それは、声で分かるのかい?」
「うん」
大慌てだった両親と違って、クリニックの先生は落ち着いていた。時々、私の話す内容を手元のシート端末に記録しながら、私の頭の中に住む妖精の輪郭を掴もうとしていた。
「名前はあるのかな?」
さっそく頭の中に訊いてみた。初対面から病院に向かう間に私はすっかり理解した。彼女は空中ではなく頭の中にいて、彼女がそうであるように私も頭の中で話さないと答えられないことを。私の声は反響して変なふうに聞こえるらしい。
<あなたのお名前は?>
<わたしの名前はまだないよ。付けてもらう前に捨てられちゃった>
「ないって」
明らかに重要な経緯を私は意図したのかしないのか、大幅に省略して先生に伝えた。先生は「あかりちゃんがなにか名前を付けてあげるといいよ」とにこやかに教えてくれた。家に帰った私は家族共用のシート端末に向かって話しかけて、自分と似た意味を持つ言葉を彼女に与えた。自分とそっくりになれたら、りんごも好きになると思ったから。
<るくすちゃん>
<るくす……? それ、わたしの名前?>
<そう。嫌なら、りんごちゃんって呼ぶ>
<じゃあ、るくすでいい>
以降、私は自分で言うのもなんだけど明確に平凡な少女として人生を歩んできたつもりだ。特別に優秀でも落第生でもなく、人並みに趣味があったりなかったり、流行を追いかけたり嘲ってみたり。パパとママと毎月通うクリニックの先生はそういった日常の話をすごく詳しく知りたがった。対して私は、平凡なりに成長した代償としてだんだん自分の話をしたくなくなった。二人と先生の話しぶりで、るくすをどうやらイマジナリーフレンドの一種だと想定していることも判ってきた。
当然、私も頭の中の妖精を誰かに認めてもらうのは難しいと徐々に学んだ。高学年に差し掛かったあたりで周りからの「イタい子」認定を払拭すべく、イマジナリーフレンドの”設定”を封印した。そんな感じで、ようやく私が彼女との世界と外界での振る舞いを区分できるようになった頃、パパとママに大切な話を持ちかけられた。二人はやけに姿勢正しく椅子に座って待っていて、表情を固く引き締めていた。そして、家族共用ではない別のシート端末を持ち出して、私の頭が本当はどうなっているのか告知した。
要するに、私の頭の中には脳みそがまったく入っていないということだった。
例の事故の後、私の体は無事でも頭の方はどうもだめだったみたいで、その日のうちになんとかしないと助からなかった。幸いにも二人は家族保険をかけていて、それの特約には実験的先進医療の優先対象権、なんてものが含まれていた。もっと運の良いことに、そんな先進医療の用意が当日中に手配できてしまった。二人はおびただしい量の免責事項を読まされ、何度も生体認証をして、ついに私の頭蓋骨から役に立たなくなった脳みそをかきだす法的許可を下したのだった。
かきだす前に脳みそからコピーされた私の精神は縦横五センチにも満たない正六角形の量子チップに収められて、今では頭蓋骨の底面に建設された台座にちょこんと載っている。
こんな話をいきなり聞かされて、私は思わず自分の頭をごつんと叩いた。
叩くこぶしの感触が、まさしく空洞を打っている感じがした。私ってどんなに頑張っても全然普通じゃないんだ。
るくすが頭の中でくすくすと笑ったので、もう一度叩いた。
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